印 〜しるし〜
瑠璃姫は一風変わった姫らしくない方なので、逢瀬の夜はいつも騒がしい。
そこが楽しくもあり、ただただ「帝」に従うだけの女御達と過ごす義務の時間とは異なり、
この方といる時だけが、本当の私なのだといつも思う。
今夜も、二人きりで、日中にあったあれこれについて楽しく語り合いながら過ごした。
庭の花が綺麗だったとか、女官の何某が面白い事をしたとか、たわいもないけれど、深窓の姫には想像もつかない視点の会話を楽しむ。
しかし、今日の瑠璃姫は、どこか心あらずだった。
明日の事が気がかりなのだろうかと、思い至った。
「そんなに気が重いなら、私も参りましょうか?」
瑠璃姫にそっと尋ねると、姫は静かに首を振った。
承香殿で、後宮の主だった方々が集まり、女だけの歌問答があるのだという。
私の寵妃である藤壺女御も、明日の会には招かれている。
入内前の印象で、教養に欠け見劣りする方という噂があるのは知っているが、雅楽や筆跡こそ苦手でも、頭のいい瑠璃姫は、実はその他のことは人並み以上に優れているのだ。
和歌ごときで、恥をかくような事はないだろう。
身分も教養も申し分のない姫。
本来なら、誰にも非難すべき点のない方なのに。
臣下の妻になるべき方を、直前に、無理矢理奪ったという前代未聞の艶聞から、また、私の類をおかぬ寵愛ぶりから、浮名を流した女が平気で内裏にやってきたと後宮の目は厳しい。
表立って非難する事は誰にも出来ないだけに、女同士の陰湿な嫌がらせがあるのだという。
いつだったか、ひどく瑠璃姫を侮辱する内容の和歌を皆が作った事があった。
曰く、どんなに寵愛あってもこれだけ通って子種ひとついただけない方は、恥じ入って次の方に譲ってはどうかとか、石女が内裏にいるとか、何とか。
酷い事を、故事にひっかけて口にして、私の姫をあざ笑ったのだという。
藤壺付の女房達が、いくらなんでもあれはと、口惜しそうに私に注進してきた。
瑠璃姫は、何も言わず、聞かぬふりをして流したというが、私は怒りで目が眩みそうになった。
帝の妃はどの方も政治的に重要な地位を持つ方に連なる女性ばかり。
事を荒立てたくない瑠璃姫に免じて多少の事は目をつぶってきたけれど。 さすがに度が過ぎた。
あの時は、格式高きこの内裏の中で、心卑しき歌を平気で詠む者がいるそうだが、はて、そのようなもの言いを許すのはどの局の御方かと、暗に女御らを叱責し、面目を失った女房が局を辞したとか。
以来、そのようなあからさまな嫌がらせは聞かないが、その分、陰湿に、内に篭った嫌がらせが続いているのだという。
明日の会では、どんな趣向で姫に恥をかかせようとしているのか。
女同士の醜い争いを好まない瑠璃姫は、このような事態そのものに心を痛めているに違いない。
自分が、ここにあることで起こる、様々な事柄について。
今上の寵愛が、ただひとりの人にあるためにおこる醜い争いについて。
すべては私の不徳だというのに。
優しい瑠璃姫は鬼になった女たちのことすら庇おうとするのだ。
「いいのよ、あたしに何かをいう事で憂さを晴らせるなら、勝手に言わせておくから」
強がりとも本音ともとれる言葉を口にして、瑠璃姫は笑った。
沢山の中の一人はいやだと私の元へ嫁ぐことを散々嫌がった瑠璃姫は、覚悟を決めた後はそれについての愚痴は一言も言わない。
随分、無理をさせていると思うのに、私を責めることもせず、それが鷹男の立場なんだから仕方ないと、寂しそうに笑うのだ。
そんな姫の手をそっと引いて抱き寄せる。
「帝の妻は数多いても……、この鷹男の妻はあなただけです、瑠璃姫」
「うん、その言葉だけで充分だよ、あたし」
「愛してますよ、大切な大切な、私の姫」
愛しい人に、そっと口付けを落とす。
そのうち、どちらからともなく、そういう雰囲気になり、瑠璃姫を褥に横たえた。
心を込めて最愛の姫を愛でた。
楽しく柔らかな時を過ごし、二人でいることの幸福感を分かち合う。
愛しさを伝えあった−−。
人心地ついた私は体を少し起こして、瑠璃姫を抱き寄せた。
少し放心したままの姫は素直に私に体をまかせ、目を閉じている。
無防備に私に体を預けるこの人が……本当に愛しい。
「あなたが風にも耐えぬ深窓の花だというなら、いくらでも守るのですがね……」
溜め息をつくと、くすくすと笑い声をたてて、瑠璃姫が目を開いた。
「深窓の花だったら、鷹男はあたしを望んだりしなかったでしょう?」
「まあ、それはそうなんですが……」
けれど、大切なものが軽んじられ、平気で踏みにじられるのを黙ってみているのは男としてはいかがなものかと思う。実際、動くことのできない自分が情けなかった。
「あ、ちょっと、こんなとこに跡つけないでって言ってるでしょ!」
瑠璃姫は乱れた胸元からのぞく素肌に私がつけた所有印を見つけて非難の声を挙げた。
「私以外見る者もいないのですから、かまわないでしょう?」
「女房達が見るでしょ! ああもう、こんなにつけて! 明日は勝負服だとか妙に意気込んでいるんだもの。絶対に独りで着替えさせてくれないんだから! どうするのよ〜〜!!」
「女房達は見慣れているでしょう? 逆に、張り切るかもしれませんよ?」
「馬鹿っ! スケベっ!」
顔を赤らめて怒る瑠璃姫が私から逃げ出さないように、腕の力を強めた。
匂い立つような色気を放っている瑠璃姫の首筋に、つと唇をよせる。
そうだ。
私はひとつの企みを思いつく。
首筋を甘噛みし、甘く差すような痛みを、私の所有印を瑠璃姫に与える。
「ちょっと、何してるのよ〜!! やめてよ、鷹男、馬鹿、駄目だったら!!」
私から逃れようとする瑠璃姫を無理矢理おさえつけて、跡を残した。
「信じられない〜〜!! 首にまでつけて! 人前に出れないじゃない! 明日の歌合せ、どうするのよ〜!!」
なみだ目になって、鏡を覗き込む瑠璃姫は実に可愛らしい。
「自慢してやりなさい。こんな跡をつけるのはあなただけだ。あなたを軽んじる女御達も、私の寵愛が誰にあるのかをはっきり思い知ればいい!」
「だからって、そんなさらし者みたいな真似……」
「恥ずかしいなら扇で隠せば問題ないでしょう? なに、よほど近くに座った者しか気付きませんよ」
「鷹男は女心が全然わかってない!!」
恥ずかしがり屋の瑠璃姫にはかえって辛い事だったようだ。
わなわなと震える拳を振り上げて胸を叩かれた。
振り上げた腕を手に取り、拳を開かせると、許しを請うように、指に一本一本口付けた。
「いたずらが過ぎましたか……。すいません、女心のわからぬ男で」
瑠璃姫は真っ赤なお顔で抵抗をやめた。
かと思うと、唇を震わせて怒りを示した。
「〜〜、こ、このっ、このっ〜。口先男〜!!! もう許さないんだから〜!!!!」
何かが瑠璃姫の琴線に触れたのか、体当たりでどんと押されて寝転んでしまった。
瑠璃姫が、いきなりのしかかって、私の胸元を肌蹴た。
「うわ、何を……」
「あたしもつけるからね!!」
なんと意外な状況に、どぎまぎしてしまって、次に何が起きるのか、固唾を呑んで見守ってしまった。
姫は私の胸に舌を這わせ、ちゅうちゅうと音をたて、その紅い唇で肌を吸いはじめる。
甘い痛みが走って、私は頭がのぼせそうになった。
「ほら見て! できた!」
瑠璃姫は私の肌にできた赤紫の跡を指差し、嬉しそうに笑った。
自分がどれだけ大胆な行動をしているか、気付いてもいない。
いや、姫にとっては、きっとこれは、色事ではないのだと、無理矢理納得しようとする。
「ですが、1つでは虫刺されだと言えば済むことですからね」
わたしは少し意地悪な気分になってそう言い返した。
「じゃあ、言い逃れができないぐらいつけるから!!」
姫は再び私の胸に顔をうずめて唇をすぼめた。
必死に肌を吸う瑠璃姫。
なんの邪まな思いもなくされている行為だというのに、その唇があまりに淫らで、私は見ほれてしまう。そうするうちに、瑠璃姫は、ひとつ、ふたつと、甘い痛みを体に残してゆく。
私は為すがままに恋しい人を見つめていた。
「ほら、どう! これならもう言い逃れもできないわよ。鷹男も恥ずかしい思いをしてらっしゃい!」
悪戯が成功したことに気を良くした瑠璃姫が、ほほほと、高笑いをした。
「誰にこれを見せればいいのですか? 更衣を手伝う女官らに? それとも、他の女御のもとへ行けと?」
私は悪戯心で尋ねてみた。
「あー……、他の女御様のもとへは……」
そんな姿で私が局へ行ったら、また大騒ぎになるという事にようやく気付いたようだ。
「そうですね、ちょうどいい機会だ。行きたくはありませんが、明日から月に一度の義務を果たしに、しばらく他の女御のもとへ参りましょう。この胸の跡をみて、自分たちとあなたとの違いをあの者らは思い知ればいい。明日の絵合わせで、あなたの首筋に残る跡をみたあとなら、効果もまたいっそう」
きっと私は意地の悪い顔をしているのだろう。
「駄目よ、鷹男、そんなことしたら、女御様達も、あんたも立場が……」
「面目をなくして宿下がりでもすればいいのです。あなたを愚弄する者を私は許さない!」
「鷹男……」
瑠璃姫を、抱きしめて、優しく口付けた。
本当は、あなた一人のものになれない私が一番悪い……。
それはわかっているけれど。
「それにしても……」
くっくっくっと。
互いのあられもない姿に、笑いがこみ上げてくる。
一体、何をやっているのか、私たちは。
瑠璃姫も、自分の肌と私の肌に散らばる赤い跡をみやって、恥ずかしそうに笑った。
「大好きですよ、私の姫」
もう一度、また一度と、何度も口付けを与える。
高まる熱に、私達はまた飲み込まれていく。
夜が更けるまでに、あといくつ、所有の印を残そうか。
切ない瞳で私の熱を待つ瑠璃姫の耳元に愛を囁き続けながら、
静かに、忍びやかに、逢瀬の夜は更けていくのだった。
完
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