あなたを想う四季 1 【春】 あたしが彼に出会ったのは吉野という山深い里での事だった。 崖の下で、傷ついて桜に埋もれて倒れているあの人に、あたしは、待ち続けていた人がやっと帰ってきたのかと思った。 彼の声はびっくりするほどあの人に似ていた。 記憶をなくしたという彼に、あたしが、名前をつけた。 たった数日、共に過ごしただけの峯男は、あの人とそっくりな声であたしにこう告げてくれた。 「もういいからお帰りなさい、瑠璃姫」 哀しい別れに心を病んでいたあたしは、その言葉に救われた。 峯男にすがって沢山の涙を流し、涙とともあたしの後悔や哀しみが流れていって吉野の桜に消えていった。 はらはらと舞い落ちる桜の中に、哀しい思い出はすべて埋めた。 あの夜、峯男はふつりと姿を消した。 探そうとは思わなかった。 あの人は御仏の遣い。 だから、もう二度と会う事はないと思ったのだ。 すべての事に納得し、あたしは、吉野を静かに去った。 懐かしい人達の待つ京の都へ戻った。 ほとぼりが冷めた頃に高彬と結婚した。 過去をなつかしく思い出にしていきながら、穏やかに生きていく。 穏やかで幸福な日々が、続いてゆく。 そう、信じて疑わなかった。 あの人に、再び出会うことさえなければ。 いや、今となっては、再会は必然だったのだと思う。 あたしは高彬の妻で、あの人は高彬の部下で、どのみち、再会するしかなかった。 そう思えば、吉野での数奇な出会いさえも、運命だったのかもしれない。 あの人に恋をしたのは、あたしの運命、だったのかもしれない。 大江守弥という男がいた。 高彬の乳兄弟で、無位無官の家令ながら、若くして右大臣家の家令を勤める切れ者で、かの家の影の実力者だという。高彬を弟のように可愛がっていたこの男は、かつてあたしと高彬の結婚に強固に反対していたという。 義母に疎まれた上に、屋敷の実権を握っている守弥までもが反対するので、なかなか結婚話が進まなかった。 結局、強引に結婚をした今でも、守弥の暗黙の反対が右大臣家の中で微妙な空気を作っていて、なかなか三条に来づらいのだと、高彬はこぼしていた。 ある日、その守弥が、右大臣家から遣いで、我が三条の屋敷にやってきた。 いろいろと話を聞いていたあたしは、興味本位で彼を盗み見ようとして、つい声をあげてしまった。 だって、守弥は、峯男だった。 あたしを見て、驚いて逃げていった守弥は、峯男とそっくりの顔立ちで、忘れることのない声を持っていた。 あたしは呆然と、その背中を見送った。 守弥は、あたし達の結婚に反対していた。 守弥は、瑠璃姫は高彬に相応しくないと言った。 悪名高き瑠璃姫に対する世間の評判なんてそんなものだと、自分でもわかっていたはずなのに、それを言ったのがあの峯男だと思うと、心が傷ついた。 守弥は、峯男は、あたしが嫌いだったんだ。 あんなに、優しくしてくれたのに。 泣いているあたしを慰めてくれたのに。 守弥は、あたしが嫌いだったんだ。 とても傷ついたのを、よく覚えている。 吉野での思い出が、遠く、うす曇の空の向こうへ去っていくような、寂しい気持ちになった。 それから、守弥という人の噂を聞くにつけ、心が騒いだ。 本当はどんな人なんだろう? あたしの事が、そんなに嫌いなのかな。 記憶をなくしていた峯男は、あたしの事を忘れてしまったんだろうか。 それとも。 最初から、何もかも覚えていて、あたしを騙していたんだろうか。 あたし自身をみて、高彬に相応しくないって判断したのかな。 あまり考えすぎて、自分が守弥に恋しているような怪しい錯覚に陥りそうだった。 それでも、それは、彼自身への思慕ではなくて、吉野の思い出とともにある感傷にすぎなかったと思う。 結局、妻といえども、右大臣家の人間とは殆ど繋がりを持たないあたしに、守弥の事を聞きだす有力なツテはなく、あったとしてもその勇気もなかった。 随分長いこと、それを長いことウヤムヤにしておいた。 三たび、彼と偶然の再会をしたのは、早春のことだった。 高彬の実家・白梅院の宴の折りに、あたしは高彬のもとへこっそり遊びにいった。 そこで、偶然、あの人と会った。 ひょっとしたらまた会えるかもしれないという僅かな期待はあったのかもしれない。 でも、偶然は必然。 本当に再会できるとは思っていなかった。 それなのに、あたし達は、とうとう出会ってしまった。 彼の妹の局で、二人きりで言葉を交わした。 吉野での事を聞いた。 記憶を失っていたのも本当で、あの人が、今は、あたしの事を嫌ってないという事も聞いた。 それから、やくたいもない話をいろいろした。 言葉少なく吉野での事を語ろうとしない守弥に、その時の事を白状させようとした。 いろいろ聞いているうちに、あの記憶喪失が守弥にとって忘れたいほどの大失態で、主君の婚約者にのこのこ助けられた事を未だに言えないでいる姿に笑いが出た。 策士、策に溺れるっていうのがピッタリだった。 話を聞くにつけ、面白い男だと思った。 高彬が話していた有能で頭があがらない家令とは違う、ドジで抜けているおかしな男の姿が見えてきた。 あたしの言葉にいちいち反応して真っ赤になったり狼狽したりするのも、とても面白かった。 それはかつて出会った峯男とも似て非なる男だった。 この時、初めて、あの人の遣いである峯男ではなく、守弥本人に興味を持ったんだと思う。 また会いたいと思った。 それが、儚い恋の始まりだった。 2 |