あなたを想う四季 5 【極寒の冬】 事件が起こったのは、木立もすっかり枯れ、雪がちらつく寒い日の事だった。 心が、体が、悲鳴を上げ始めて痛んだと思う。 健康そのものだったあたしは、冬の間、世間の姫なみに寝込むことが多くなった。 その日も朝から具合が悪く、ものも食べる事が出来ずにもどしてしまったあたしに、小萩が心配そうに声をかけてきた。 「姫様、おややができたということはございませんの?」 あたしは愕然とした。 こうして過ごしていれば、いつかはそういう日がやってくる。 あたしは、その可能性を考えないようにしていた。 青ざめ、その先におこる全てを思い浮かべる。 喜ぶ高彬の顔。 大騒ぎをするだろうとうさま。 内大臣家をあげての加持祈祷。 鷹男からは祝いの言葉とともに、やくたいもない嫉妬の言葉。 きっとは義母上も大はりきりだろう。 あたしは、生まれたおややを抱きしめて、高彬と二人、穏やかに笑いあう。 そこにあの人はいない。 もう、絶対に届かない。 あたしは、何もかも雁字搦めに、ここに縛り付けられて、もう何処へも行けない。 もう……あの人のもとへは行けない。 「姫様、やはりそうなのですか?」 両手で顔を覆い涙を流すあたしに、小萩が慌てる。 「大丈夫ですよ、皆様、とても喜んでくださいますから。待ちに待った御子様ですもの」 小萩は一時期、様子がおかしかったあたしが今は高彬とすっかりうまくやっていると思っている。 誰にも本心を話せない。 話したらそれが真実になってしまう。 だから、なんでもないふりをして日々を過ごしてきた。 小萩すらも裏切ってきた。 「違うのよ。ひょっとしたらそうかもと思ったけど、違うの。でも、そうかのかなと思ったら急に涙が出てきちゃって」 「不安なお気持ちはわかりますわ。姫様には内大臣家の将来がかかっているんですもの」 小萩に誤魔化して、涙のわけをとりつくろった。 恐怖に涙したなんて、とても言えるわけがない。 今回は杞憂だったとしても、このままいけば、遠からずこんな日がやってくる。 あたしには、その先の未来を耐えて行ける気力がもうなかった。 もう、あの人の呪文の言葉を呟いても、何の効き目もなかった。 取り返しがつかなくなる前に、決着をつけなければいけないと思った。 夜になって、こっそり右大臣家へ粗末な牛車を向かわせた。 ここまで来たあたしを、流石の守弥も追い返しはしなかった。 最初は酷く憤慨していたけれど、あたしの顔を見るなり押し黙って、やがて、人に見られるとやっかいだからと、牛車に乗り込んできた。 人目を避けて九条のはずれまで向かい、狭い路地に車をとめる。 その間、お互いひと言も話をしなかった。 あたしは、久々にみた守弥の丹精な顔立ちを、静かに眺めていた。 守弥は、ずっとあたしから一番はなれた端に座って、何か考え事をしている。 けしてこちらを見ようとはしなかった。 「どうなさったのですか?」 守弥があたしが大好きな低い声で尋ねた。 「どうしても、会いたくなっちゃって、ね……」 「若君の北の方が、こんな軽々しいことをしてはいけません」 予想通りの答えがかえってきた。 「でも、何かあったのでしょう? ひどく…思い悩んでおられるご様子です。……随分、痩せてしまわれた」 守弥はあたしの異変に気付いていたのか、気がかりな顔をしていた。 思ってもみない優しを見せられ、泣き出してしまいたくなる。 「あたし、守弥の言うとおりにしてきたでしょ。あんたを失望させるような事は何もしなかったよ」 「ええ、ここしばらく、若君は瑠璃姫のおかげで本当に幸せそうです」 守弥が穏やかに笑った。 いつもあたしの話を目を逸らして話す人が、高彬の話だけはくったくなく話す。 「そうでしょ。あの人は、幸せそう。でもね、あたしにはわからないの。高彬はあたしの何処がすきなんだろう?」 乱暴だけど、正義感がつよくて優しいと、昔はよく言われた。 結婚してからは、せめてもう少し女らしくしてほしい、出歩いたり危険なことをしないで欲しいと不満を言われたけれど、もともと高彬が好きなあたしとはそういう人間なのだ。 なのに、この頃あの人は、ただ笑う人形のようなあたしにのめり込んでいる。 心のない人形が以前のあたしよりも好きだというなら、あの人の好きなあたしというのは、一体何だったんだろう? 「若君は、いつも姫のことを自慢しておられます。先だっても冬のお衣装を北の方自ら縫ってくださったと。一生懸命作ってくれて本当に嬉しいとおっしゃっておられました」 でも、そんなのはあたしの心がこもっていない。 罪悪感からやった事に過ぎないのに、何も気付かず喜ぶあの人が薄っぺらい男に見えてきて増々、気持ちが遠ざかる。 せめて以前の愛情が取り戻せればと必死にもがいているあたしに、あの人は気付いてくれない。 「もしもさ……、子供ができたと言ったら……どうする?」 守弥が立ち上がりかけて、牛車の天井に頭を打った。 「何をなさっているのです! こんな揺れる車に乗って、大切な体で!!」 「もしもの話だって言ってるでしょ!」 怒鳴られたから、怒鳴り返した。 「でも……いずれそういう日が来るかもしれない」 来るべき未来をあたしはもう耐える事が出来ない。 これ以上はできないと訴えて許してもらいたかった。 「喜ばしい事です。私の大切な若君とあなたの間に御子様が生まれるなんて。大切に……この守弥も大切に育てさせていただきます。若君をお育てしたように、御子様に色々な事を教えて差し上げたい。そんな日を夢見る事が許されるなら」 あたしには描けなかった未来予想図を、守弥が口にした。 やがて、子供たちが大きくなって、高彬が屋敷を構えて、あたしは北の方としてそこに移り住む。 子供たちが走り回って。 家令を務める頑固者の守弥が、子供たちをつかまえて、生真面目な説教をする図が浮かぶ。 あたしは守弥と家の細々とした事を時々話す。 穏やかで幸福な……未来予想図。 「そうね……、そんな未来もあるのね……」 「瑠璃姫……、若君は優しい方です。あなたは幸せになれます。二人とも、この守弥の大切な方です。お二人の幸せを、死ぬまで守弥は支えてゆきます」 この堅物には、きっとわからない。 あたしはもう半年も努力を続けた。 守弥に会わずに、高彬の事だけを考えて。 だけど、それでも忘れる事が出来なかった。 嘘も重ねていけば、いつか本当になるのかもしれない。 少なくとも、かつてあった親愛の情は抱けるようになるかもしれないと信じて来たけれど。 もうそれは無理だと思う。 あたし達は、知らず知らずに擦れ違ってしまって、もう後戻りのしようがないのだ。 それだけでも辛いのに、やがて守弥を目の前にして、暮らしていかなければならない日々がやってくる。 地獄だと思った。 本当に恋しい人の傍で、愛してない夫に抱かれ、偽りの心で生きていく。 これ以上の生き地獄はない。 「教えてよ、守弥。どうしたら、あんたを忘れられるの?」 逃げられないように、着物の端を掴んだ。 ドンと狭い牛車の壁部に背中をぶつけて進退窮まった守弥は、両手をあげて律儀にあたしに触れないようにする。 本物の堅物男。 「私にはわかりません……。あなたのような方が、どうしてこんな無位の家令に執着するのか。あなたに相応しい方は、若君しかいません!!」 「恋に理由はないのだと、どうしてわかってくれないの? 忘れられる想いなら、こんなに苦しんだりしない。 あんたを忘れられる方法があるなら、できるだけの事をする。 これまでだって、してきた。 でも、できないの! できないのよ!!」 あたしの辛さをわかって欲しかった。 あなたが望むなら、この先も高彬のいい妻でいる。 だけど、それを望むなら、つらい地獄へ向かっていくあたしに、せめてもの情けが欲しい。 容赦ない、冷たい言葉ではなくて。 「お願いよ。ひとつぐらいは、縋るものをくれたっていいじゃない」 −若君を裏切ったら、一生、許さない。 そんな冷たい言葉ではなく、許しの言葉を。 死ぬまで抱えていけるような、優しい愛の言葉を。 「……叶うべくもない想いなのです。あなたを攫って何処へ行けというのですか? どうにもなりません。もっと、現実に目を向けなさい。それがあなたの幸せなんです!」 それでも与えられる言葉は冷たい現実ばかり。 この人は夢を見ようとはしない。 ほんの僅かな夢も見せてくれない。 「私達は、大切な若君を介していつまでも繋がってゆきます。それで充分ではありませんか!」 「それが生き地獄だと、なぜわからないの?」 頭を守弥の胸に押し付けた。 それなのに抱きしめてもらえない。 「一度でいいから、、、抱いて?」 守弥の心臓が早鳴るのがわかった。 ひゅっとわずかに息を飲む音も聞こえた。 「抱いてよ! もう呼び出したりしないし、守弥を困らせるようなことしない。ずっと高彬の傍にいる。だから……たった一度でいいから、あたしの思いに応えてよ……」 「……できません」 でも、戻ってきた答えはいつものとおり。 引き剥がされないように、ぎゅっと、背中に手を回す。 「夢をみせて? たった一夜でいい。夢をみせて? それ以上は何も望まない」 長い間、答えは戻ってこなかった。 顔をあげて、上目遣いに守弥を見ると、あたしを凝視していた守弥と目があった。 彼は、あたしの目を逸らさずに、ゆっくりと口を開いた。 「……できません」 あたしの腕を振り払いもせず、だけど、抱きしめ返すこともせず、両手は壁についたまま。 瞳の中に浮かぶのは、少しの怒気と、哀れむような感情? 真っ直ぐにあたしを射抜く瞳が、強い意思を示している。 こんな目をした時、彼はけして自分の意見を変えない。 「そう……。わかった」 完全な、からまわりだった。 もしかしたら守弥も、高彬を思う気持ちの半分ぐらいは、あたしを好いてくれるかもしれないと、一縷の望みにかけたのに。 あたしの恋は……どこにも行き場がない。 あたしは、守弥から手を離した。 ほっとしたように守弥が手を下ろした。 「右大臣邸に行ってちょうだい」 外にいた牛飼い童に小窓を空けて声をかけた。 やがて、牛車がゆっくりと動き出す。 あたしたちは来た時と同じようにずっと無言で揺られていた。 泣くまいと思ったのに、涙はあとからあとから流れてきて止まらなかった。 あんまり恥ずかしいので、柄にもなく扇で隠して顔を見せないようにした。 「くっ……ふっ……」 だけど、あたしの嗚咽が、狭い牛車の中に響いている。 守弥はさぞや気まずい思いをしていることだろう。 「抱いてしまったら……戻れません!」 守弥が急に、意外な声をかけた。 「あなたを、忘れられなくなります。できるだけ見ないように努力してきたけれど、あなたの笑顔も、泣き顔も忘れられません。寝ても冷めても、忘れられないのです」 それは、あたしが本当に欲しい言葉だった。 「だから……たった一度でも、そのような事はできないのです」 あたしは、今度は、喜びの涙が止め処もなく溢れ出てくるのがわかった。 「少しは…あたしの事、好きなんだ? 高彬の次ぐらいには……好きでいてくれるんだ?」 その先を促す。 その言葉をもらえれば、あたしはこの先も生きていける。 どんな結果が待っていても、生きていけるような気がする。 「駄目です……。申し上げられません。言葉は……何も差し上げられません! あなたには何一つ差し上げられません!」 あまりの徹底ぶりに、不覚にも笑いがこみ上げた。 いっそすがすがしいぐらいに真面目でスジを通す守弥に……笑ってしまう。 そんなところが好きなんだ。 真面目でキレ者で、だけどぬけてて……偏屈な頑固者で。 守弥を知れば知るほど……好きになる。 「あたしは……守弥が好き」 あたしはもう一度守弥に手をかけ、その大きな体をぎゅっと抱きしめた。 守弥は、また、目を逸らしてしまう。 「もう、許してください……」 「いいから黙って聞いていて!」 丹精な顔立ち。 動かないのをいいことに、至近距離で見つめる。 これが最後かもしれないから……見るぐらいは許してね? 「守弥が好き。高彬を一番に思うあなたが、あたしに応えてくれる事はないとわかっていても……守弥が好き。一番好き。誰よりも好き。守弥じゃなきゃ駄目。守弥以外……いらない!!」 恋ってこんなに激しい感情を持つものだと、あたしは思いもしなかった。 何もかも捨ててもいいと、この人が得られるなら何もいらないと、そこまで思う恋なんて、あたしは知らなかった。 あたしの恋は報われなかったけれど、それでも、恋をして良かったと思った。 「瑠璃姫……」 守弥の体に無理矢理、身を預ける その距離、ほんの少し。 体を傾ければ、簡単に唇が重なる、だけど、遠い遠い距離。 あなたはあたしを見ない。 いつも目をそらしてあたしを視界から追い出す。 近づけばあとずさる。 逃げていく。 だから、あたしは、いつもあなたに近づくことすら出来なかった。 けれど、この行動の意味を知った今、あたしは、何の戸惑いもなく、彼を抱きしめられる。 苦しそうに、守弥は言葉をひねり出す。 「私は……どうしても、若君を裏切る事はできません。私の大切な若君を……」 「うん、わかってる。だけど、言いたかったの。じゃないと……この先へは進めないの。だから、どうしても決着をつけておきたかったの」 「あなたは素晴らしい姫です。若君にふさわしい。私の若君があなたを選んだのは当然のだ。その事を、誇りに思いますよ、私は」 それが精一杯の言葉。 でもね。 もう少し、あと少しだけ、優しい言葉が欲しい。 「もしもあたしが……高彬の妻じゃなかったら、あたしを奪ってくれた?」 守弥の瞳の奥のわずかな迷いを、あたしは見逃さない。 言葉はあげられないという守弥に、あたしは最後の言葉を望む。 お願い、それさえくれれば。 もう、、、、諦めるから。 守弥は、震える瞼を伏せて、小さく息をついた。 そして、観念したように、告白した。 「……ええ。絶対に」 唇を無理矢理おしつけた。 守弥は、、、、動かなかった。 あたしを拒否することもせず、じっと、そこにいた。 揺れる牛車の中で、ただ言葉もなく、守弥のぬくもりを感じていた。 もうすぐ、別れの時がやってくる。 あたしの儚い恋が終わる時がくる。 牛車は、いつのまにか右大臣邸近くにたどりついた。 「もう、充分……。ありがとう」 戸を引いて、守弥は、牛車から降りていく。 パタリと戸を閉める音が、あたしと守弥を永遠に隔てる別れの音に聞こえた。 「瑠璃姫!! 幸せに……なってください。若君は必ずあなたを幸せにしてくださいます。私は……若君にならあなたを託せますから。どうか、、、」 遠ざかる声が、あたしに何かを訴えている。 あたしは笑った。 泣き笑いをした。 この辛い片恋いが、せめて最後は、幸福だったと思いたいから。 あの人とあたしの想いは重なっていたと、せめて信じていたかった。 4 6 |