あなたを想う四季 6

【ふたたび、春】


吉野はまた、春の季節を迎えていた。
ひらり、ひらりと舞い上がる吉野桜が、山風を受けてあたりを散らす。
山里の春は、あの懐かしい日の春と何らかわらない。
思い出しては、涙を流す日々も、また同じこと。


結局、高彬とは離婚した。

守弥の言葉は、凍っていたあたしの心を溶かしてくれた。
今度こそ、この人のいい妻になろうと思ったのに。
心が戻ってきたあたしは、彼に抱かれることが出来なくなっていた。
どんなにあの人の顔を思い浮かべようとしても、体が拒否してどうにもならなくなった。

高彬に、離婚してくれるように、懇願した。
吉野が忘れられないという今更な言葉に不審がられたけれども。
この一年、無理を続けていた事を真摯な言葉で伝えた。
触れられただけで身を強張らせる日々を何度も過ごして、ようやく最後には納得してくれた。

守弥の反応は知らない。
離婚が決るや、あたしは、身ひとつで、春まだ浅い吉野に旅立ったから。
高彬の将来にまたしても傷をつけた事を、ひどく怒っているだろう。
あの人との約束は、とうとう守れなかった。


このまま、吉野で生きていこうと思う。
幼い頃の吉野の思い出と、先ごろあった不思議な出会いと、忘れられない思い出がここには沢山ある。
生きていれば……きっと、もっと素晴らしい出会いがある。
今はつらくとも、吉野君を忘れて新しい恋をしたように。
ここで、暮らしていけば、きっと、新しい未来が見えてくる。

桜の季節がやってきて。
谷にはまた花びらが降り注ぎはじめて。
2年前、心を押し殺しながら通った谷への道を、あたしは駆けてゆく。
ここで、あたしは守弥を見つけたんだなあと、なつかしく思い出した。
今年の桜が終わるまで、毎日、毎日、ここへ通おう。
そして……桜の中にこの思いを埋めてこよう。
吉野君への思いを、あの時、ここに置いてきたように、また、桜の中にあの人への思いを埋める。
いつか、懐かしい思い出に変えて、笑う事が出来るように。


そうして谷に通い始めてから何日かして。

「うわっ!!!」

誰かの悲鳴が聞こえたかと思うと、ずさああああああっ!!!と、すごい音がしてた。
あわてて音のほうを見ると、雑色姿の若者が、崖の下に寝転んでいた。

「つっ……」

崖から転がり落ちたらしい。
あちこちを泥だらけにしながら、体を起こそうとしている。

どくん、どくん。
あたしの心臓が、大きく音をたててた。

「ああ、またやってしまった。つ……、足が……」

左足をくじいてしまったのだろう。
だけど、あたしは、近寄ることもできずに、呆然と立ち尽くしていた。

夢にまでみた恋しい人が、そこにいる。
なにがおこっているのか全然わからずに、どくどくと心臓を早打ちしながら、そこに立ち尽くすしか出来なかった。
やがて彼は、顔をあげ、あたしを見て笑った。

「……なんで? どうして、、、ここに?」

やっと搾り出した声はかすれて、声にならない。
怪我した足をひきずるようにして、彼はゆっくりと近づいてきた。
あちこちボロボロで、泥だらけ。

「谷に落ちて記憶を亡くしてしまいました。私は誰なのでしょう? あなたはご存知ではありませんか?」

笑いながらそう言った。
しらじらしい嘘。
だけど、、、、あたしはそんな茶番に涙が出た。
一歩一歩、守弥があたしの元へ近づいてくる。
穏やかな微笑みを浮かべながら、あたしを真っ直ぐに見て。

「み、峯男っていうのよ、あんたは」

守弥が……あたしを見つめている。
目を逸らさないで、あたしを見てくれている。

「行くところがないのです。よろしければ、あなたの側に置いていただけませんか」

なんでそんな事を言うのか、わからなかった。
今更、何がおこってそんな事を言ってくれるのか。
ハイ、そうですかと簡単に肯くには……いろいろな事が起こりすぎていた。
簡単には信じられなかった。

「私はもう遅かったのですか?」

触れられるほどの距離まで近づいて、守弥は足を止めた。
あたしは、守弥を見上げて……、しゃくりあげる。
声にならなくて、一生懸命、かぶりをふった。

「よかった! 右大臣家も辞めてきてしまったし、吉野にはあなた以外何も縁がなくて、これからの生活をどうしようかと思っていたんです」

生活なんて色気のないものより先にいう事があるじゃない!
事情は何となくわかったけど、相変わらずなボケッぷりに守弥はどう転んでも守弥だなとあきれる。
でも、どんな心境の変化なの?

「う、うちで暮らすなら、あたしの命令を守ってもらう……んだから……!」

「どんな命令でしょうか? おいてくださるのでしたら何でも致しますよ?」

あたしは、びしりと宣言した。

「あんたは今日からあたしのものよ! 勝手に去る事は許さないわ。あたしより、大切な者を作ったりしたら……ゆ、許さないんだから! 絶対に、絶対に、許さないんだから!!!」

あたしはこれ以上ないぐらいの大声で怒鳴った。
守弥は、ぷっと吹き出し、あははと、大きな声をあげて笑った。

そして−−、抱きしめられた。
つよく、壊れるぐらい、強く、抱きしめられた。

「もう放しません。嫌だと言っても、絶対に放しません。若君も捨てて……、守弥という名も捨てて……、あなたと生きます! 私は、今日から、、、、あなたの峯男です」

「ほんと……に?」

あれほど欲しかった腕に閉じ込められた。
守弥の体温があたしに伝わる。
桜に化かされて、夢を見ているんじゃないかと。
降りしきる桜の中でぼんやりと思う。

「降参しました。若君ならばと思ってあなたを退けたのに。私のために、私なんかのために、すべてを捨ててしまうなんて!」

守弥の声が頭から降りてくる。
目を閉じても間違う事はない。
これは、吉野君じゃない。
初恋の君の使者ではなくて、あたしが恋した人の声。

「仕方ないじゃない……。守弥が好きで、守弥しかいなくて、守弥以外、何も要らなかったんだから……」

あたしはもう、、、前に守弥に伝えて、見事に玉砕した、あの時の言葉をもう一度伝えた。

「あなたは前にもそうおっしゃいましたね。その時に気付かなかった私が愚かだったのです。あなたが……とうに覚悟を決めていたなら……もう、私が、私があなたを幸せにして差し上げるしかないじゃありませんか」

守弥は、そっと屈んで、俯いたまま立ちすくしたあたしを下から覗き込んだ。
涙でぐちょぐちょの顔を見られてしまう。
だけど、嗚咽が止まらなくて……あたしは、ひくひくと泣き続ける。

「大江守弥はもういません。記憶のない峯男を、ここで雇ってくださいますか?」

あたしは、何度も何度も肯いた。

「私は、あなたのものです、瑠璃姫」

守弥が、あたしの欲しい言葉をくれる。

「そして、あなたは……私のものです」

守弥はあたしをひっぱって、桜の褥に倒れこむ。
空が……青い。
そして、守弥の何の迷いもない微笑みが、眩しくて……あたしは目を閉じた。

瞼の向こうには、この1年の出来事が走馬灯のように蘇ってきた。
あなたを想い続けた四季だった。
辛くて、哀しくて、どうしようもなかった四季が、今、終わろうとしている。

口付けが降りてきた。
唇を強く押し付けられた。
何度も、何度も、口付けられた。
歯列を割り、舌を差し出され、からめるように吸われた。
時々、瑠璃姫と、切ない声であたしの名を何度も呼ばれた。

「あなたを、くださいますか?」

あたしは……震える声で答える。

「奪って……。あんただけのものにして……」


桜が舞い落ちる。
あの日、ここで出会った守弥とあたしは、ここからまた始める。
あたしたちは、ひとつになる。
ひらひらと舞い落ちる花びらに囲まれて、愛を紡ぐ。

「愛してます、瑠璃姫」
「大好き、守弥」


柔らかな桜の褥で、新しい四季が始まろうとしている。
あなたと過ごす新しい四季が。
どこまでも続いてゆく、二人だけの季節が。