さくら 〜望郷〜

吉野で会おうと、約束した。

燃え盛る炎の中、馬に乗った瑠璃姫が遠ざかっていくのを、立ち尽くして見つめていた。
早く逃げてと、最後まで私の心配をする姫を、姿が見えなくなるまで見送った。

姫の恋人だという男が私に浴びせた太刀傷は焼け付くように痛み、立ち上がることもつらい。
生き残れる自信は、正直、なかった。
けれど、ここで死ぬわけにはいかないと思った。


私のしてきた事を思えば、生きる事は罪だと思う。
私怨のために、多くの人を巻き込んだ。
何の罪もない人が、私ゆえに何人も死んでいった。
その罪を、すべてなかった事にする事は出来ない。
瑠璃姫は、生きて償えというけれど、償う事の出来ない罪というものが確かに存在する。
私の犯した罪は、そういった種類のものだった。

そして。
そうまでして叶えたかった憎しみは……意味のないものだった。
父は、私の剃髪を……大事に大事に持っていたという。
私は忘れ去られていたわけではなかった。
遠目にも、父に会う事を許され、兄の傍らに居る事を許されていた。
それが父に出来る精一杯の愛情だと、憎しみに歪んだ目には気付けなかった。

これは壮絶な親子喧嘩で、また、一方的な兄弟喧嘩でしかなかったのだ。
父に、私を忘れて欲しくなかった。
兄に、気付いて欲しかった。
そう、口に出して言えばよかったのだ。

それなのに、沢山の人々を巻き込んでしまった。
もう、この罪は永遠に消えない。


それでも生きてみようかと思ったのは、私が愛したたった一人の姫のため。
生き残れるかどうか、わからない。
生きている資格があるかどうかも、わからない。
それでも私を見捨てないでくれた瑠璃姫に報いたい。
あの姫を哀しませたくない。


私は、のろのろと歩き出した。
間もなく、ここは燃え落ちる。
どこまで逃げられるかわからないけれど、逃げなければならないと思った。

女物の袿を借りて、怯える女人を装って、燃えさかる炎から遠ざかってきた。
どうやって、京を抜けたのかも思い出せない。
途中、どこぞから逃げ出した裸馬を見つけて、飛び乗った。
振り返れば、炎が朝焼けのように、京の空を焦がしているのが見えた。

どこへ向かっているのかもわからない。
遠くへ、ただひたすら遠くへ、馬にしがみつきながら、馬の脇を蹴って、道なき道を進んだ。
人のいない方向へ、人のいない方向へ。
随分、遠くの山まで分け入ってきた。
そこで、悪路に馬がつまづいて、振り落とされた。

「つっ………」

草むらの中に、私は放り出された。
声も出ない痛みが、背中を襲う。
馬が嘶く声が、遠ざかっていくのが、ぼんやりとわかった。

辺りには灯りひとつ見えない。
そこは、深い深い山里の中だった。

一歩も動けそうになかった。
肩の傷がますます開いたような気がする。
もう、指一本も、動かせそうになかった。

−これまでか……。

もう、覚悟はできていた。



このまま、私が儚くなってしまったら。
おそらく、草むらに隠れた私は、野ざらしのまま。
誰にも見つけられず、野犬にでも食われてしまって、誰にも弔われる事もないだろう。
もっとも見つかっても、弔われる事はありえないなと、自嘲する。

−これで、いいんだ。

なぜか、そう思えた。

私の躯がここに忘れ去られても、きっと、あの姫は私を忘れない。
父も、私を忘れない。
兄も……、いずれ、私の存在を知る時がくる。
あの人達は、きっと、私を覚えていてくれる。

それよりも。

「吉野で会おうよ!」

別れ際のあの言葉が、頭をよぎる。
あの姫は、必ず約束を守る。
きっと吉野で、私の到着を待ち続けるだろう。

せめて半年ぐらいは、私を待っていて欲しいと、我侭な事を思う。
こうして、誰だかわからぬ野ざらしの死体となってしまえば。
もう、私は誰にも見つけられない。
ならば……、あの姫に、本当に私が逝ってしまったと、気付かれないですむかもしれない。
私を想って少しは泣き暮らしてくれるだろう。
だから、これでいいんだ。



どれほど時が経っただろうか。

まもなく、夜が明けようとしている。
茜色の空が、草むらの向こうから覗いていた。
段々、世界が、明るくなっていく。


体の痛みはもう、感じなくなっていた。
最期の時が、訪れようとしているのだと、思う。
けれど、私の心は、凪のように本当に穏やかだ。

言いなれた読経を心のなかで詠みはじめた。
御仏に許してもらえるとは思わない。
私は、これから地獄に落ちて、この罪を償うのだ。
けれど、せめて。
私が奪った命に対して、最期の懺悔がしたい。
心の中でしか読経を読めないことを許してほしい。
目を閉じて、一心不乱に、読経を続けた。


目を開けると、晴れやかな空が広がっていた。
本当に青い、青い空だった。
こんな空の青さなど、私は、久しく見る機会もなかった。


さわわさとそよぐ草むらの中。

−よしののきみーーーぃ

−るりひめぇ−−−−−

あの日々が、まざまざと思い出される。

こんな日は、私たちはいつも草原を元気に駆け回っていた。


あの時から、なんて遠くに来てしまったんだろう。
もっと早く、この空の青さを思い出せば。
吉野で育んだ素直な心で、あの姫のように、自分の思いを誰かに伝えていれば、結果は、違ったのかもしれない。
なぜもっと早くに、こんな心を取り戻せなかったのだろう。
父ともう一度、話をしなかったのだろう。
もっと早くにあの姫に再会して、自分を取り戻せなかったのだろう。


いや……自分の事は、もういい。
全ては済んだこと。
今は、残してゆく愛しい人の事を考えたい。

姫は、、、、いつまで私を待ち続けるだろうか。

−忘却は罪です。

私は、あの人にそう言ってしまった。
その言葉が、あの姫にとって呪いとならないように、今は祈らずにはいられない。

ほんの少し、偲んでもらえればいいのだ。
あなたは、私をけして忘れないと信じているから。
何かの折々に、私を思い出してくれるだけでいい。

そう、例えば、吉野で桜が咲く間ぐらいは、思い出してくれれば。
本当に、それだけでいい。

−哀しまないでください、姫。

伝えられないことがつらい。

忘れていい。
何もかも忘れて、幸せになっていいから。
誰とでもいい。
あの男でも、私の知らない誰かでも、それから……愛しくて憎い、私の兄とでもいい。
幸せになってほしい。



目を閉じれば浮かぶ幼き頃の風景。
舞い落ちる吉野桜。

春も、夏も、秋も、冬も。
わたしたちは、ともに過ごした。
辛い事は何もなくて、穏やかなあの日々。

−もう……、忘れていいから。

吉野で、来ない私を待って泣き暮らすだろう瑠璃姫に、そう伝えたい。

−もういいから、お帰りなさい、姫

眩しい朝日が、朝露に光って、桜の花びらのように見える。
降りしきる桜に、私は埋もれていくようだ。
そうだ、還ってゆけるものなら、あの地に還りたい。
願わくば、桜の花になりたい。
春の季節は、あの地に降り注ぐ花になって、風に漂っていたい。


もういいから、お帰りなさい、瑠璃姫。
この花を見るたびに私を思い出してください。それで充分だから。
だから、お帰りなさい。

誰か、伝えて欲しい。
この想いを。

瑠璃姫、あなたに。


誰よりも愛しい、あなたに。



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