−−ただいま、帰ってきたよ。

羅生門を抜けて京の都の内側に入った時、あたしは、そっとその言葉を呟いた。


さくら 〜再会〜


つい10日ほど前まで、あたしは、吉野にいた。
つらい事が沢山あって、心を病んでいた。
ずっとあの地を離れられずに、苦しんでいた。
その時、夢か真かよくわからない桜の使者が訪れて、帰京を促してくれた。
あの人の姿を借りて、吉野の君に背中を押してもらった。
いい加減、認めなければならない哀しい事実を、受け入れる事が出来た。
すべてを昇華させた − あの人の、腕の中で。


もういいから、お帰りなさい、瑠璃姫。
この花を見るたびに私を思い出してください。それで充分だから。
だから、お帰りなさい。


今、あたしの手元には彼が残していった桜の花びらがある。
あの人にしてみれば単なる思い付きでした事なのかもしれない。
だけど、あたしは、この花に救われた。


花はすぐに萎れてしまった。
本当は吉野の地に埋めてくるはずだった。
けれど、どうしても捨てる事が出来ずに、小袋に詰めて大切に大切に胸元にしまった。
これを見るたびに……あたしは吉野君を思い出すだろう。
だから、忘れてもいいと。
吉野君は常にあたしの元にいるから、日常の日々の中ではもう忘れてもいいのだと、あの人に言ってもらったような気がして、どうしても手元においておきたかった。


あの日から僅か3日後、まだ吉野桜が散りきらぬうちに、あたしは無理矢理、あの地をあとにした。
ここに居なくても、この地に縋らなくても、あたしはもう大丈夫だと信じられた。
あたしの胸にはいつも吉野がある。

吉野からの道は徒歩で進んだ。
一歩一歩、自分の足で吉野から遠ざかりたかった。
小萩と二人、険しい山道を抜けてゆく。
桜の道を踏み分けて、この里をあとにする。
途中、小さくなってゆく吉野の山を何度も何度も振りかえった。
遠ざかる山々を見るたびに、思い出が消えてゆくようで、胸が痛かった。
そのたびに、桜の小袋を握り締めて、あの人の言葉を思い出す。

−もういいから、お帰りなさい、瑠璃姫

辛くても、あたしは前に進む。
そして、罪の意識に胸が痛んでも……何度も振り返って、吉野の山を仰ぎ見る。
しっかりと吉野の春を胸に焼き付けておかなくちゃいけない。
いつでも思い出せるように。


道すがら、ずっと吉野君の事を考えていた。
結局、あたしは、焼け落ちた三条邸の跡であの人と哀しい再会を果たしてから、本当に数える程しか会う事が出来なかった。
内裏で、鷹男の傍で、内裏にまつわる不穏な事件の犯人を知ってしまった日のこと。
高彬が、あの人を太刀にかけたその瞬間。
そして、通法寺で、最後の別れとなってしまったけれど、再会を約束したあの時。
たったそれだけ。

随分長い間考えていたけど、恋だったのかと聞かれても、答えられなかった。
幼い頃の淡い恋は、やがて本物に変わったかもしれない。
けれど、恋をする時間もあたしたちにはなかった。
再会して……別れた、ただ、それだけ。

でもやはり、あれは恋だったのだと、今は思う。
時間なんて関係なく、ただただ、その人に会いたくて、その人の事しか見えなくて、その人のためなら何でも出来る。
何をおいても彼を救おうとした純粋な想いが、恋でなくてなんだったのだろう。

でも、あたしはこれまで知らなかったのだ。
やがて夫となるはずの人に、少しのときめきを抱いて、くだらない嫉妬をして、まわりを巻き込んで喧嘩をして。
そういうのが恋だとずっと思っていた。

あまりにも、違いすぎた。
「あなたは幼い頃に遊んだ友達のために命をかけられる、そういう人だから」
冬の吉野で、高彬にそう言われて、そうなんだと納得しかけていた。
だから、吉野君への想いが、紛れもなく恋だという事に、ずっと確信が持てなかった。

でも、あれは、恋だった。
あたしは、あの人を救えなかった後悔や何か以上に……失った恋のかけらに、ずっと苦しんでいたのだ。
その想いを胸に封印できた今になって、ようやくそう思えるようになった。
一生……、忘れない。
これからどんな人生を歩もうと、この桜の花に誓って、死ぬまで忘れない。
あの人がいたこと。
あの人と……儚い恋をしたこと。
思い出を胸に、あたしは生きていこう。
それが、逝ってしまったあの人に出来るたったひとつの手向けなのだから。

そんなふうにして、吉野君への想いを、ひとつ、またひとつと思い出に変えながら、遠ざかっていった。
やがて、吉野は見えなくなっていった。





そこから先は、後ろを振り返らなかった。
真っ直ぐに京への道を目指す。
古え人の住まう飛鳥を抜け、わびしい平城の都跡を通り越し、次第に変わってゆく景色の中に新緑の息吹を感じながら、真っ直ぐに京を目指した。

京の都には、あたしを待っている人達がいる。
あたしは自分の事に精一杯で、誰の言葉も耳に入ってこなかったけれど、誰も彼もがあたしを心配していたのだ。
今なら、その気持ちがわかる。

−もう戻っていらっしゃい? あなたを待っている者達のところへ

あの人の、伝えたかった事が、よくわかる。


京へ近づくにつれ、あの人の、哀しい微笑みを思い出した。
何度も何度も、あの時の事を思い出した。
あの時のあたしは、何も考えられなくて、吉野くんだりまで来てくれたあの人を、いない者に見立ててしまった。
それなのに、あの人は自分の事など一言も口にせずに、あたしの思うままに、あたしのためだけに、吉野の君になりきってくれた。

とても大きな人だった。
愛に溢れる人だった。

かつて、あの人の言葉巧みな和歌や、愛の囁きにときめきを感じる事はあったけれど、それは、恋愛ゲームのようなものだった。
鷹男がどんなに一人の人間を気取ったって「帝」である事実は変えられない。
鷹男にときめく心は仕方ないけど、「帝」との結婚は考えられないから。
所詮、今だけの恋の鞘あて。

あたしはそれまで文ひとつもらった事のない悪評高い姫だったから。
実は、主上の思い人でもあるという、密かな優越感があって。
妻問いする男は一人じゃないのよという、ちょっとした優越感もあって。
そんな風に軽い気持ちでしかなかった。

あたしには高彬がいるから。
いずれは高彬と結婚するんだから。
他にも愛人のいる人なんて絶対にゴメンだから。
あれこれ理由を挙げれば簡単に捨てられるほどの軽い思いしか、彼には抱いてなかった。

だけど。
あの人は、とても大きな人だった。
あたしを、本当に大切に思ってくれているのだと、知ってしまった。


一歩一歩、京に近づいてゆく。
あなたの場所へ近づいていく。
夜、宿舎に入って、薄灯りの中、安っぽい褥に横たわって目を閉じると、思い出すのは吉野の桜ではなくて、桜に囲まれた鷹男の哀しい笑顔だった。

どうしても、あの人に会いたい。
会って、お礼が言いたい。
どうにかして、あの人を笑わせたい。
笑顔が見たいと、そのことばかり考えていた。

のちに、あなたは恋に落ちたのですよと、笑われた。

知り合ってから何年もの間、求婚をあっさり退け続けておいて。
もうまもなく長年の婚約者から妻問いを受けようとする身で。
逝ってしまった人への想いをようやく振り切ったばかりで。

吉野君への想いが恋だったと冷静に思えるようになったあたしだったのに。
愚かなことに、この想いも恋だと、思い至る事が出来なかった。

あの人の哀しい顔ばかりがちらついて。
どうにかして笑ってもらいたくて。
寝ても冷めても鷹男の事が気にかかって。
ただ、ただ、あの人に会いたくて。
それは吉野君に抱いたと同じ、罪悪感だとばかり思っていた。

それが恋というものだという事に、全然気付いていなかったのだ。




京についたあたしは、すぐさま、九条にある我が内大臣家の別邸に入った。
本来ならここで身なりを整えて、大貴族の姫君としての体裁を整えてから三条へ向かう手はずだった。
けれど、あたしは気を変えて、来るなり、二条堀川に使いを出した。
なんとか内裏にあがってあの人に会う機会を作っていただけないかと、藤宮様に懇願した。

三条に戻ってしまったら、知らせを聞いた高彬がすぐにもかけつけるだろう。
あたしは、身動きが取れず、当分は何処にも出してもらえない。
だから、この機会を逃したくなかった。
三条に戻る前に、あの人に会いたかった。

使者はすぐに戻ってきた。
藤宮様は目立たぬ網代車を用意し、迎えを寄越してくださった。

驚く小萩に、旅の疲れが出て寝込んでいるから、誰が来てもしばらくは会いたくないと断わるようによく言い含める。
九条に寄るなんて話は誰にもしていないから、まず大丈夫だと思うけど、万一、聡い高彬が気付いて屋敷に乗り込んで来ないとも限らない。

ただ、どうしても鷹男に会いたい。
それだけがあたしの心を突き動かしていた。
あとから考えれば、もう半年近く会っていない婚約者よりも会いたい人がいるなんて、誰が考えてもおかしな話なんだけれど、あたしは、鷹男に会うことしか考えられなくて、これが裏切りだとか、心変わりだとか、そんな事はこれっぽっちも気付いていなかった。
……もう、その事は語っても仕方ないのかもしれない。
どんなに、想いをつらねて理由付けしたところで、あんなによくしてもらったあの人を捨てた事実は変えられないのだから。

それよりも、今は、鷹男の事を語りたい。



「瑠璃さま……!」

堀川について、案内された部屋にはすでに藤宮様がいらした。
瞳を潤ませて、駆け寄ってこられた。

「心配を、おかけしました」

あたしはにこりと笑って、それをうけて、泣き顔の藤宮さまも、笑った。
あなたが元気になられたので充分、恨み言は申しませんと、言葉があった。
あたしは、この人にも思われている。

−私でなくてもいい、あなたの父や、高彬や、藤宮や……、あなたを待っている者たちをどうか忘れないで欲しい。

本当に、あの人の言うとおりだったと、思う。


「主上にお会いしたいと伺いましたが」

「事情があって、顔を見てお礼を言いたいんです。御文なら送れても、会う事は叶いませんから、どうぞ尽力くださいませんか」

あたしは、単刀直入に協力を願い出た。
過去に何度も、藤宮様の女房という名目で内裏に参内していた。
その方法なら、誰にも知られず鷹男に会える。

「今から口実を作っても、内裏に上がるには10日余りかかりますわ。それでもかまいませんか?」

「仕方ないです。簡単に会える方じゃない事はわかっています」

九条で様子をみつつ、新三条邸に戻る手はずを整えることになっていますからと告げる。
その間に、二・三日、抜ける事は可能だろう。
では、ちょうど良い口実がありますから、主上に参内する旨をお知らせいたしましょうと、藤宮様は女房達に陰陽師を呼ばせ日取りをいくつか選ぶよう指示すると、筆をとって手際よくスラスラと書き付けて、内裏に御文をお送りになった。

それからは、懐かしい話に花を咲かせた。
藤宮様は噂好きで茶目っ気たっぷりな方だけれど、本当に大切な事は、揶揄したりなさらない。
何がどうなって、なぜ、真っ先に鷹男に会わなければならないのか。いろいろ聞きたい事もあるだろうに、鷹男の事は一切聞いて来なかった。

あたし達は、吉野での暮らしぶりや、戻ってくるまでの道程について、あれこれ話をした。
京を出た事もない藤宮様にとっては、大変珍しい話ばかりだったのだろう。
山里の風景や、平城の都の様子など、思いつく限りの事をお話した。
時折、思い出が溢れて胸に詰まってしまう時もあったけど、桜の花を思い浮かべながら、鷹男の声を思い出すと、平静に戻れた。
藤宮様は、そんなあたしを、何も聞かずに黙って見ていてくださった。

そんな事ですっかり時間がたってしまって、恐縮した宮様が今夜はこちらに泊まっていきなさいなと、告げた時には、陽はとっぷりと暮れていた。
何度も泊まっているあたしにとってここはとても気安い場所で、疲れていたあたしは、お言葉に甘えて、こちらで早めの床をとらせてもらう事にする。


それら全てが、藤宮様の綿密な配慮だったと、あたしは全然気付いていなかった。
あたしの様子に何かを感じ取ったあの方は、今でなければ駄目だと思ったのだという。
宮様は、恐れ多くも鷹男に、何をおいても今夜ここへ来るようにと、御文を書いた。
九条ではさすがに障りがあったから引き止めた。
来れるかどうかはわからなかったから、あたしには告げなかった。
深夜に、主上がいらしたから別室へ参りましょうと、藤宮様ご自身に起こされるまで、あたしは、何ひとつ知らされていなかった。


「さあ、お行きなさい、瑠璃姫。話したい事があるのでしょう? 朝が来るまで、お二人だけにして差し上げます」

藤宮様は、妻戸をすっと指差して、引き返していった。
あたしは沢山の人に生かされて、大切にされている。
その事を、深く、深く感謝して頭を下げた。

やっと会える……。
あたしは、急いで妻戸を開け放ち、そこにいる公達を見つけた。

鷹男が、いた。

鷹男が、円座に座って、こちらを見上げていた。
あの時あたしが見た、何かを耐えるような、優しくて、どこまでも哀しい鷹男の微笑みではなくて。
穏やかな、眩しい笑顔を携えて、あたしを見ていた。


この顔が、見たかった。
この笑顔が見たくて、はるばる吉野から、戻ってきた。
あたしは、感激に打ち震えて、目頭が熱くなった。

「瑠璃姫……」

鷹男の声だった。
あの時聞いた吉野君によく似た低い声ではなく、華のある鷹男自身の声だった。
もしも吉野君と重ねてしまったらどうしようと思っていたあたしの心配は杞憂だった。
鷹男はどこまでも鷹男で、吉野君じゃない。
あたしは、吉野君の化身に会いたかったわけじゃない。
鷹男に……、あなたに会いたかった。


鷹男が、あたしの言葉を待っている。
その時になって、あたしははっと気付いた。

あたしは、鷹男に会いたい一心で、彼に伝えるべき言葉を何も考えていなかった。
伝えたい事は山のようにある筈なのに、何から伝えればいいのかわからない。

最初の言葉は何だろう?

ありがとう?
とても感謝している?

何とか言葉を捜そうと思うのに、思うように言葉が出てこない。
口を開いては、閉じ、また開いて。
妻戸に立ち尽くしたまま、あたしはパクパクと口を動かすばかりだった。

鷹男の瞳が潤んでいる気がするのは気のせい?
でも、その瞳が歓喜を含んでいたから、あたしはほっとした。

あたしはもう、あなたに心配をかけていないよね?
もう、大丈夫だから、笑って?

伝えたい言葉が沢山あるのに、声にならない。
じわりと溢れた涙が、頬を伝っていった。
早く言わないと、鷹男に、誤解される。
早く、鷹男を安心させてあげないと。

あたしは、意を決して、鷹男に近づいていった。
鷹男と目をあわせたまま、一生懸命、微笑みをたずさえながら。

やがて、鷹男に触れられるほどの距離まで近づいた。
それでも、あたしには言葉が出てこなかった。
不思議そうに、首をかしげる鷹男。
でも、あたしが哀しんでいるんじゃない事はわかっているみたい。

よかった。
そう思ったら、唇に、本当の笑みが戻ってきた。

あたしが笑ったら、鷹男も笑った。
それがおかしくて、ますます笑った。
泣き笑いだった。

やがて、しびれをきらした鷹男が、口を開いた。

「おかえり……」

−お帰りなさい、姫

それは、あの時、聞いた声ではなくて、鷹男自身の、張りのある優しい声。

「ん……」

あたしはもうたまらなくなって、鷹男に飛びついた。
言葉が出てこないなら、態度で示そうと、ぎゅっと抱きしめていた。

あるはずのない桜が、あたし達に降り注いでいるような気がする。
吉野君が、遠くで、笑っている気がする。



吉野から京への、吉野君から貴方への、徒歩で歩いた長い長い道のりが、鮮やかに蘇ってくる。
あなたへ、帰ってきた。
あなたが、ここにいるから、帰ってきた。

その想いを……言葉にして伝えたかった。
あたしは、万感の想いを込めて、たったひと言、その一言を告げる。

「ただいま……」

会いたかった貴方に。


イラスト提供:露香姫、文責:HAL

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