さくら  後編


初めて踏み入れた吉野は、山全体が、桜に覆われていた。
山里の桜は、京で咲く花とはだいぶ赴きが違うけれど、見上げれば桜が私を覗いている。
そんな雰囲気に押されそうになった。

「いつもあちらにいらっしゃると……田舎町の事ですから噂になっているようです」
案内につれてきた権中将が、谷を指差した。

傷を負った瑠璃姫は、なかなか京へ戻って来なかった。
頼みの右近少将は「いろいろと思うところがあるのでしょう」と、多くを語らず、無理に帰京を促す事もなかった。

私の弟が……、私が高彬に抜刀を命じた者が、瑠璃姫の筒井筒の少年であったと。
吉野の里で二人は出会ったのだと、そんな話をはからずも聞いた。
この里で、おそらくもう生きていないだろう弟を、瑠璃姫は偲んでいるのだろうか。

誰にとっても痛手となった事件だった。
誰かが、どこかで、一度でも擦れ違わなければ……、起こらなかった悲劇だった。
私にしても、襲い掛かる自責の念が、今でも頭を離れない。
けれど、過ぎた事を悔やんでもどうにもならない。
今はただ、生きている者の事を考えなければと、思う。

春になれば戻ると答えた姫は、桜の季節が終わっても一向に戻ってくる気配がない。
それどころか。
どこか気の抜けた様子で里をふらふらと彷徨っているという噂を聞いた。
心が痛んだ。
おそらくあの姫は……まだ、後悔の念から抜け出せないのだろう。
弟がもういないと、認める事がまだできないのだろう。

右近少将に、帰京を勧めるように何度も促したが……、頑固者は姫の意思にまかせたいのだと言った。
嫌な予感がした。
あの姫は確かに強い心を持っているけれど、それでも、誰かが後押しをしなければ立ち上がれない……そんな時もあるのではないかと。 心配でたまらなかった。

そして私は愚かにも、こんな地まで来てしまった。
あの姫が求めているのは自分ではないと、承知していながら……、ここまで。


まるで、桜の精かと見まがうように、瑠璃姫は谷に降り注ぐ花びらに埋まっていた。
目をあけると、私をみて、ぽろりぽろりと涙を流した。
やはり、姫はここで、来ない弟を待っているのだ。
私の姿に、誰かを重ねて、滂沱の涙を流し続けていた。

抱きしめる事しか出来なかった。
姫がすべてを乗り越えるのを、この手で手助けしたいというのは、私の傲慢に過ぎないのだと、思い知らされた。
あなたを待っている者がいるのだと、ただ伝えたかった。
私でなくてもいい、あなたの父や、高彬や、藤宮や……、あなたを待っている者たちをどうか忘れないで欲しいと、そう口にすることしか、私には出来なかった。

「お願い、言って。【もういいから、お帰りなさい】って、あの人のかわりに……言って……!!」

姫の悲痛な叫びに、応える。
私は、鷹男ではない。
今だけは、あなたの待ち人になる。

「もういいですから、お帰りなさい、瑠璃姫」

何度も何度も……、泣きつかれて姫が眠るまで、耳元に囁いた。
心を押し殺して、あなたの恋する人のふりをし続けた……。
それであなたが、楽になるのなら、いくらでも私は道化になろう。


結局、鷹男としての言葉は一言も発さずに別れた。
屋敷の前で手づから抱いてきた大切な人を、権中将に預けた。
私は、ここには来なかった。
ここに来たのは、弟の使いだから。



姫からの帰京を知らせる御文が届いたのは、それからまもなくの事だった。

吉野の里で、桜の使者に会いました。
お使者が帰りなさいとおっしゃるので、京へ戻る事にしました。
いずこもなく去っていかれたお使者に心からの感謝を伝えたいのですが、
どなたに伝えればいいものか、あなたならお分かりでしょうか?

願わくば……桜の使者としてではなく、
かの方自身の姿を拝見し、声が聞きたいと思います。

自然と、笑みがこぼれた。



姫は気付いているだろうか。
姫に出会ってから数年余り。
はじめて、瑠璃姫が、みずから、私に会いたいと言った。
私の声が聞きたいと、言った。

おそらく瑠璃姫自身も気付いていないであろう、僅かな変化を。
その言葉の意味を読み違えるほど、私は愚かではなかった。


イラスト提供:露香さま、文責:HAL