天気の良い休日に、自宅から印旛沼まで片道約30Kmの適度な距離のサイクリングを楽しむことが多い。 いつもは印旛沼で折り返して帰るのであるが、今回は足を少し伸ばし佐倉市内の観光も楽しんできた。
千葉県北部の印旛沼南側台地に広がる佐倉市。 江戸時代には11万石の佐倉藩として栄えた城下町である。 江戸時代には三重櫓を持つ佐倉城があったが、明治時代に取り壊され,、陸軍佐倉連隊の駐屯地となったそうである。 現在は城址公園として整備され、土塁や空濠などを見ることができる。 また公園の中心部には国立歴史民俗博物館(通称「歴博」)が建つ。
Wikipediaなどで佐倉藩の歴史を調べると、江戸時代初期に徳川家康の命を受けた土井利勝が佐倉城を築城し、以後頻繁に藩主が変わっている。 幕末の藩主は堀田正睦という人で、幕府の老中を務めたという。 そして初の日本総領事となったハリスを相手に日米通商条約締結に向けて奔走したが、朝廷から勅許獲得に失敗し辞職したそうである。 この堀田正睦は蘭学を奨励してオランダ医学の治療と同時に、医療教育を行う佐倉順天堂を開設させるなど、進取の気風を持った藩主であったことが伺える。
現在の佐倉市内は、昔ながらのたたずまいを残す商家だけではなく、武家屋敷なども残されて公開されている。
佐倉市内の中心部を東西に走る蘭学通りには、出桁造り(だしけたづくり)と呼ばれる関東特有の造りを持つ古い町屋が点在する。
出桁造りとは、軒が前面に大きく張り出した造りで、江戸・明治・大正時代を経て関東大震災に至るまでの、一般的な商家(店舗兼住宅)建築を指すそうである。 庇の深い立派な軒が機能的な装飾となり、商家の格をも示したと云われるとのこと。
佐倉藩の最後の藩主である堀田正倫の邸宅で、明治23年(1890)に建てられ、現在は国指定重要文化財である。
現在は主屋や門番所、土蔵などの建物と庭園が残され、現存する明治期の旧大名家邸宅として貴重なものだそうである。
旧堀田邸は、玄関棟、書斎棟、座敷棟、台所棟、二階の居間棟があり、2階部分は公開されていない。 全体的にきらびやかさは無いが、質素な美しさをかもしだしている。
鏑木小路とも呼ばれる道路に面し、5棟の武家屋敷がこの通り沿いに集まっている。 その中の3棟が公開されている。
通りの両側には土塁や生け垣が築かれ、往時を忍ばせる雰囲気のある通りである。
※ 以下の写真は9月28日再訪時の写真である
武家屋敷通りに並ぶ旧河原家と旧但馬家住宅の間に、細い坂道が下っている。 「くらやみ坂」という名だそうである。 道の両側は鬱蒼と茂る木々で覆われ、街灯の無い昔は本当に真っ暗闇だったのであろう。
武家屋敷通り西側の奥まった所に「ひよどり坂」がある。 武家屋敷に住む武士たちが、佐倉城へ登城する、今風に言えば通勤路だったらしい。
坂の周囲は深い竹やぶで、このひよどり坂やくらやみ坂は、夜には辻斬りでも出てきそうな場所である。 恐らく現代でも、夜に一人歩きするには相当な勇気が必要であろう。
佐倉藩では、天保4年(1833年)に「天保の御制」なる定めを作り、武士の禄高により住宅基準を設けたようである。
武家屋敷通りに並ぶ3棟の屋敷は、この住宅基準に沿って建てられ、旧河原家住宅が大屋敷、旧但馬家住宅が中屋敷、そして旧武居家住宅が小屋敷に相当するそうである。