群馬県下仁田町にある鹿岳(かなだけ)と四ッ又山に登った帰りに、コンニャクでも買って帰ろうと下仁田の街に立ち寄る。 下仁田は一般的には下仁田ネギとかコンニャクで良く知られている。 しかし山好きの人達にとっては、鹿岳や四ッ又山だけでなく、妙義山や荒船山、物語山など、上州の山々の入口としても知られている街である。
下仁田にはもう一つ本宿という古い街並みを残す地区があるが、今回は駅前周辺を少し歩いただけである。
下仁田は、江戸時代には中山道の脇往還の宿場町であった。 中山道の本庄宿から別れ、藤岡、富岡、下仁田を経由し、追分で再び中山道と合流する、別名「上州姫街道」とも呼ばれた脇往還である。
この下仁田宿と本宿地区(市街地から西に8Kmほどにある)は、碓氷峠を避けて通る善光寺詣での人達や、佐久からのコメの輸送ルートとして賑わったようである。
「てのしこんにゃく」が美味しい店。 明治の頃に建てられ、国の重要文化財に指定されている。
上信電鉄・下仁田駅の西側、上町から仲町にかけて歩いてみる。
上町と仲町の間にある細い路地を下仁田駅に向かって歩く。
裏寂れた飲み屋街のような雰囲気が漂う。
脇往還にふさわしく、街道沿いには古い道祖神が立っていた。
上町と仲町の間を西側(駅と反対側)に入ると、拝殿が立派な彫刻で覆われた諏訪神社がある。
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諏訪神社と並ぶ龍栖寺?の前に並ぶお地蔵様。
説明板によると、尊王攘夷の旗を掲げて挙兵した水戸浪士の天狗党と、幕府の命で追撃してきた高崎藩とで下仁田で交戦し、これを下仁田戦争と呼ぶそうだ。
この戦いで高崎藩士36名、水戸浪士4名が戦死。 ここに眠る野村丑之助は僅か13歳で初陣したが、小野派一刀流の使い手である高崎藩士・内藤儀八との戦いで数か所の深手を負い、辞世の句を残して切腹したとのこと。
会津の白虎隊も若かったが、野村丑之助は僅か13歳、現代でいえば中学1年生が生死をかけて戦い、切腹とは凄まじいというか、悲劇的な話である。 帰宅して調べると、右手を切り落とされ、足手まといになることを憂いて左手を使って切腹したそうだ。 私が13歳の時には、何を考え、どのように行動していたのか? 今から思うと、何も考えてはいなかった・・・
下仁田の街には、他にも幾つか下仁田戦争関連の史跡があるようだ。