1万ヒット記念SS:「3つの願い」 5


狩衣に着替えた瑠璃は、侍従たちに先導され、 校書殿の東廂に設けられた弓場殿へと進んだ。
このあたりは、紫宸殿の近くという事もあり、人通りも多く、女性にはまず縁のない場所なのだが、今の瑠璃には周りを楽しむ余裕もない。
重い重い足取りである。

だって、弓なのだ。
お転婆な瑠璃は、平安貴族の嗜みとして小弓を室内で密かに楽しんだ事もあるが、本格的な弓となれば話が違う。へっぴり腰の鷹男など世間に見せられるわけもなく、入れ替わり第一日目にして危機的な状況を迎えようとしていた。

毎年、ここでは正月過ぎに賭射という賭け弓が行われ、左右の近衛が弓を競う。
つい先日、鷹男観覧の元、賭射が行われて、勝者となった右近衛が褒美を下賜され、左近衛は罰酒を飲んだ。
その席で、特に功績のあった右近少将高彬の弓の腕前を鷹男自ら褒め称えたところ、律儀な高彬は「もったいないお言葉でございます。ここに主上おん自らお出ましでしたら、この栄誉は主上のものでございましたのに」と、逆に鷹男の弓の腕を褒め称えた。
そんな話をうけ、帥の宮が、「私は一度もその場を拝見した事がございませんが相当な腕前とお伺いしております。ぜひお目にかかりたいものです」と奏し、鷹男の一の側近として名高い秋篠権中将が、「東宮時代に幾度も拝見しておりますが、それは見事な腕前でいらっしゃいます」と返して、そんなこんなで、密かな弓の鍛錬の日取りが決った。
多くの貴族がその場に臨席を望んだが、久しぶりの事だから、いずれまた皆には目にかける機会を設けようという鷹男の声がかりで、本日の供は、言いだしっぺの3人−帥の宮、権中将、右近中将、そしてなぜか涼中将の4名のみだった。
瑠璃にとって不幸中の幸いだったと言わざるを得ない。
ちなみに涼中将は、当然ながら弓を披露するためではなく、場の雰囲気を盛り上げるべく、ぴ〜ひゃらぴ〜ひゃら笛を吹くために呼ばれたのである。
いずれにしろ、この四人が、鷹男の帝の若き懐刀と呼ばれる者達だった。

「主上、お待ちしておりました」

瑠璃がその場に登場すると、四人の公達はさっと片膝をつき礼を取る。

「待たせたな。もう準備は出来ているようだな」

右近中将の指示で、あとは弓を持ち射るばかりというふうにその場はしつらえてあった。
的の場所がはるか遠くに感じて、瑠璃はあらためて眩暈を覚える。

「本日は主上の腕を拝見できる事、朝から楽しみにしておりました」
帥の宮が無駄に色気のある微笑みを浮かべる。

「宮様のお言葉に便乗させていただけましたこと、栄誉に存じます」
控え目に、秋篠権中将は口上を述べる。

「久々に主上の豪胆なお姿を拝見出来る事、大変嬉しく思います!!」
きらきらと飼い主に懐く子犬のような瞳を向ける高彬。
婚約破棄以来、実に一年ぶりに間近で見るその姿だったが、今の瑠璃にはそんな余裕もない。心の中で「余計な事を言いやがって!!」と毒づいていた。

「(ぴーひゃらひゃら、ぴー)」
瑠璃の不穏な気配を察した涼中将は何も言葉に出さず、かわりに笛の音で挨拶をした。


「まずは、権中将、右近中将、近衛府の見事な腕前を見せてもらおう」

弓の所作も何も知らない瑠璃は、二人の身振りを真似する事を思いつく。
名指しされた二人の中から、身分が上の秋篠権中将が、御前失礼と、瑠璃の前を横切って所定の位置につき、弓矢を構えた。

パンッ!!

美しく優雅な所作で三本の矢を次々に射ると、そのうちの一本が的にあたり、残り二本はわずかに的から外れた。

「お恥ずかしい限りでございます。私も久しぶりの矢物にて、ご無礼つかまりました」
「なに。久しぶりにしては上出来な構え。さすが何事も卆なくこなす権中将だな。見事だった」

適当に言葉を口にしながら、実は今の動作を頭の中で何度も再生し、矢を持つ手の位置、放つタイミング、向きなどを、必死に頭の中に叩き込んでいる瑠璃である。
権中将が射た矢が引き抜かれ、高彬が次に位置についた。
さすが日頃から鍛錬を怠らない近衛武官の所作は美しく、しかも迷いがない。
瑠璃は食い入るように厳しい表情の高彬を見つめた。

パンッ! パンッ! パンッ!!

次々に射た矢が、すべて的の中に納まる。
見事と、帥の宮や権中将が拍手を送ると、高彬は晴れやかな笑顔を浮かべた。
瑠璃のほうを向いて片膝をつき、言葉を待つ。
その瞳が、希望に満ち溢れていて、早く言葉をと控え目に、だが確実に催促している。
見えない尻尾がさかんに振られているような気がさえする。
瑠璃は高彬の鷹男への忠誠心を目の当たりにして、汗をかいた。

「み、見事だったな、たかあ…いや、右近少将。このような武官が傍にいる事、誉れに思うぞ」
「勿体無いお言葉でございます!」

高彬と瑠璃の婚約破棄のいざこざで二人の関係は微妙かと思われたが、男同士というのはよくわからない。
あれからも鷹男は高彬を頼りにしているし、高彬も相変わらず鷹男に忠誠を誓っている。
自分のせいで二人の関係がギクシャクするのは望んでいなかった瑠璃だけれど、瑠璃には口をすっぱくして高彬に会うことはまかりならぬと厳命する鷹男が、こうして男同士仲良くやっているのは少し面白くない。
まして、高彬の後ろに見え隠れするしっぽの存在を目撃した今、結局、高彬は瑠璃よりも鷹男のほうが大事だったのでは?と、前々から思っていた疑問が沸いてくる。
自分から振ったというのに、げに女心は複雑なのであった。

「主上、いかがなさいますか?」

帥の宮の言葉をうけて、はっと我にかえる。
とても高彬のようには矢は射れない。
あんな優雅な所作が、今日初めて弓に触る瑠璃に出来るはずがなかった。

−きゅ、急病になろうかな?

そう思うものの、忠犬・高彬の期待に満ちた瞳を見ると、逃げる事もできない瑠璃。
ぴーひゃら流れる笛の音を聞きながら、ごくりと唾を飲み込んで、弓矢を受け取った。

高彬の所作を思い出しながら、矢を構える。
緊張感に手が震えて、矢じりがぶるぶると振動していた。
瑠璃は大汗をかいて、必死に手順を思い出そうとする。
その無様な姿に、当然ながら、一同は目を丸くしていた。

「お、主上???」
「な、なんだ?!」

権中将の問いかけに、矢を構えたまま怒鳴る。
目を的から逸らす事も出来ないのだ。
ぎぎぎぎぎ、カックンカックンと、ぎこちなく首だけを曲げて四人を振返った。

「恐れながら、お手の位置が左右逆のような……?」
「わ、わかるか?! ちょっと手を傷めて逆手でやってみようかと思っていたのだ」
「左様でございましたか。それで動きが不自然なのでございますか」
「う、うむ。なれぬゆえやはり難しいな」

適当な事を言って誤魔化す。
そして、話している隙にさっと矢を放った。
その矢は当然といえば当然だが、的からはるか離れた方向へ飛ぶ。

「ひっ!!」

離れた位置で控えていた近習が必死に逃れて難を逃れた。
しら〜っとした雰囲気がその場を支配する。
よせばいいのに、笛の音は物悲しげに変化し、ぴーひゃらと鳴り響いていた。

「面白い趣向ですが、私はやはり本気の主上の姿を見たいものです」

帥の宮がしれっと口にするので、瑠璃は仕方なく左右逆に矢を構え直した。
もう、これで言い逃れも出来ない。
瑠璃は覚悟を決めるしかなかった。

−だてにお転婆姫と呼ばれてきたわけじゃないのよ。やってやろうじゃないの!!

深く深呼吸をして、的を見据える。
力を抜き、余計な事を考えずに構えの姿勢をする。
すると、どうした事かすごく楽な姿勢がある。
そう、鷹男の体がその所作を覚えているのだ。
これはいける!!
ここぞという時にカンを発揮できる瑠璃は、鷹男の体が覚えるにまかせ、無我の境地で矢を放った。

バシィィィーーーン!!!

その矢は、的の中央を綺麗に射抜いていた。

「おお!! お見事!! やはり主上の腕前は本物でございましたな!!」

周囲は拍手喝采、やんややんやの声援にのって笛の音がいっそう高らかに鳴る。
こっそり御簾の向こうで観戦中の鈴なりの貴族や女官達が、押されて簀子に転がり出てきた。

−うそぉぉぉ!! あたしって天才?!

瑠璃のおかげというか、体が覚えるまで鍛錬を繰り返していた鷹男のおかげなのだが、それでも凄い事は凄い。
気を良くした瑠璃は、覗き見がばれてバツの悪い公達にも鮮やかな笑顔を送りった。


そこで調子が悪いとおしまいにしておけば良かったのだ。
調子にのった瑠璃は、最後の1本を射る姿勢に入った。

ごきげんでステップでも踏みそうな勢いの瑠璃は、ほんとうにステップを踏んでいた。
そして、お約束どおり、足をつまづかせて、重い弓をかかえたままよろけた。
驚いて弓矢から手を離したその瞬間、空に向かって矢が放たれてしまった!!

ぴゅーーーーーーん!!

空高く飛んでいった矢は頂点まで達して、やがて重力の法則に従って地上へと戻ってきた。
真上に上がった矢は僅かな放物線を描いて、鋭角に降りてくる。

ズサアアッッツ!!!!

内裏に敷き詰められた玉砂利を突き破って地面へ刺さる矢の音。
巻き上がる砂埃に、瞬時に何が起こったのかはわからない。
やがて、煙幕がおさまってきたとき、そこに瑠璃が見たものは!!

折り重なる三人の公達−−。

地面を突き刺す矢には、あろうことか、瑠璃の傍らにいたはずの高彬、秋篠中将、帥の宮、それぞれの狩衣が射抜かれていて、三人はひとまとめに矢によって繋ぎとめられていたのだ!!

− あっちゃーー、やっちゃったよ……。

驚愕した顔で主上を見上げる三人の公達。
真っ青になって両手を握り締めている観客。

「む……、手が滑った。すまないな」

瑠璃は必死に平静を装って謝罪した。

しかし、不幸な事に、三人は先ほど見事な姿勢で的を射抜いた帝を見ていた。
弓の名手である鷹男が、足をすべらせて誤って矢を射たなどと考えもしなかった。
そして、常識人である彼等には、三人一まとめに矢を射るなどという芸当が、偶然の出来事であるなどと、考えられるわけもなかった。
彼らには、わざと自分に矢を射た帝がしれっととぼけているとしか思えなかったのである。

− 一の宮の秘密を主上はご存知なのか?!
− 藤壺女御に密かに懸想している事を見抜かれたか?!
− 瑠璃さんより主上をお慕いしているとバレてしまったのか?!

ん?!
なんか一名、とんでもない事を思っている奴もいるが、それはおいておこう。
三人はそれぞれに心にやましいところがあったので、にこりと笑った鷹男(本当はごまかし笑いの瑠璃)に青くなって固まっていた。

その間も、笛の音は最高潮に臨場感を盛り上げる。

観客たちは何も見なかった事に決め込んで、蜘蛛の子を散らすように離散していった。

「き、気分が悪くなったので、失礼つかまります!!」
「御前、失礼!!」

バタバタと逃げ出していった観客達に対して、逃げるに逃げられない三人は何とかその場に留まる。

「ああ、やってしまったな」

三人の悲壮な気持ちに一向に気付いていない瑠璃(=高彬にとっては鷹男)は、両手を振りかざして見せるた。

「主上、お怪我を!!」

つまづいた勢いで地面に手を突いた時に僅かに手の甲を擦りむいていた。
ほんの少し血がにじんでいる。
帥の宮が懐から手拭を持ちだし、素早く手当てをした。

「これは穢れかな?」

瑠璃はにやりと笑った。
赤の穢れというヤツである。
この程度で穢れも何もないのだが、内裏に血が流れたのはまさしく真実。

「はあ……、確かに……」
「じゃ、物忌みだな、私は」
「は? いや……まあ、そうですが……」
「私はこれから三日は物忌みだろうな。そうだろう。な?な?」

先ほどの矢の件もあって、三人は張り付いた笑顔の瑠璃に向かってこくこくと首を縦に振る。

「帥の宮、共に来てほしい。物忌みの相手をせよ。ああ、権中将、あなたは今宵から三日間の宿居を申し付ける。否はきかないぞ」

「はっ」
「承知つかまつりました」

「高彬、そなたは……、そうだな、藤壺女御の所へ文を書くから久しぶりにご機嫌伺いへ行ってくれないか。今日一日、私が行けないかわりに相手をして差し上げてほしい。よいか、今日、一日、陽が暮れるまでだぞ」

日頃、寛容な帝は、瑠璃の事だけは人が違ったように心が狭くなる。
特に高彬には同じ空気を吸わせるのも勿体無いと思っているフシがある。
そんな鷹男のとんでもない命令に高彬は目を見張ったが、今日の鷹男に逆らうのはなぜか恐ろしい気がする。

「のちほど、文を受け取りに参ります」

三人は一旦着替える事を名目にして、御前を逃げ出していった。


「それで、私は、何をすれば宜しいのでしょうか、瑠璃姫」

いつのまには笛の音を止めていた涼中将は、この場に登場してから初めて口を開いた。
瑠璃は目を剥いて驚く。

「どうしてわかったの?」

愛用の笛を懐にしまいながら、涼中将は当然のようにこう言った。

「芸術家というのは感性で生きているものですよ。なぜそのようになったのかは存じませんが、姿は主上でも魂が違うものにどうして気付かずにいられましょう?」

似ても焼いても食えない男がここに一人いた。
瑠璃は共犯者が出来た事を素直に喜ぶ事にする。

「清涼殿にあとで迎えに来てくれる? 内裏を抜け出すから牛車に乗せてってよ!!」

物忌みと称して夜御殿に引きこもった鷹男は、帥の宮を脅して替え玉にしたてあげ、秋篠中将にはそのお守りを申し付ける。
藤壺にいる鷹男には今日一日高彬をあてがって足止めを食わせた。
内裏脱出に成功した瑠璃は、涼中将と共に行方をくらましたのである。

続く

やっと本題の脱走劇に入れました〜(><) けど、若干一名、予定外の人がついてきましたーー。

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