さくら  前編

吉野の春は……桜の春。
ひらひらと舞い降りる桜に飲まれて、あたしは眠っていた。
例の謀叛事件の折りに負った傷はとうに癒えていたけれど、
あたしの心はまだ、この吉野の里にあった。

冬の間に、高彬がやってきた。
けれど、まだ、帰る事は出来なかった。
きっと戻っておいでねと高彬は言ったけれど、あたしはそれに肯とも否とも応えられなかった。
せめて春になるまで、桜の季節が終わるまではと、往生際の悪い言葉を口にするしか出来なかった。


桜の季節になっても待ち人は来ない。
もう、あの人は来れないのかもしれないと、諦めにも似た感情が広がってゆく。
帰ってきませんかと、高彬と……あの人の使いと、入れ替わるようにして文が届くようになった。

京ではもうとうに桜の花が咲いた。
雪深い吉野の桜は未だ咲きませんと、遣いには言付てた。
その言い訳もまもなく通用しなくなる。
もうすぐ、この花々ははかなく散ってしまうというのに。
あたしの心はまだ、この地から離れられない。
まだ、あの人を諦めきる事が出来ないでいる。

いっそ、このまま……、桜に埋もれて吉野の大地に溶けてしまいたい……。

柄にもない事を考えながら、吉野君と幼い頃に遊んだ約束の地で
ひらりひらりと舞い降りる花びらに埋もれながら……目を閉じた。

思い出が瞼に浮かぶ。
あたしを呼ぶ声、幼い少年の声。
そして……大人になったあの人の声。
あの人の足音が静かに近づいてくる。
あの人はもうすぐあたしに声をかける。
なんと言ってくれるだろう?

ただいま? それとも、会いたかった?

あるわけのない未来に縋ってしまう。
もう、いい加減、諦めなければならないと、心の底ではわかっているのに。


「そろそろ帰ってきませんか、瑠璃姫?」


びっくりして、目をあけた。
いるはずのない人が、そこにいた。
少し哀しそうな、心配そうな顔で、あたしを覗き込んでいた。



「戻っていらっしゃいませんか?」

その声に、震えた。

似ているところなどまるでない兄弟だった。
鷹男は鷹男で、吉野君は吉野君だった。
雅でそれでいて剛毅な鷹男の話し方と、少し低いくぐもった吉野君と……。
こんなに似ていたなんて、思いもしなかった。

「ま……また、抜け出してきちゃったの? こんな…所まで……」

涙で鷹男の顔がよく見えなくなっていく。
目を閉じれば……あの人の顔が浮かぶ。
ごめん、鷹男。
会いたいのは……あの人なんだ。
ここまで来てくれたのに……、あたしは、あの人に会いたいんだ。

鷹男はあたしを抱き起こし、胸に抱き寄せると、静かにこう言った。

「そろそろ帰りましょう? 姫? あなたが、誰を思っていてもいい。
けれど、もう戻っていらっしゃい? あなたを待っている者達のところへ」

あの人によく似た声。
直衣越しに聞く、少しくぐもった声はとても……とてもあの人に似ていた。


「お願い、言って。【もういいから、お帰りなさい】って、あの人のかわりに……言って……!!」

あたしは、鷹男の直衣を握り締めて、そう願った。
鷹男が、あたしの髪を優しく撫でる。
少し低い……あの人とそっくりな声で、あたしの欲しかった言葉を口にする。

「もういいですから、お帰りなさい、瑠璃姫」

桜の下で、あの人が笑っている気がする。
あの人は、あたしに本当はそう言いたかったのでしょう?
もう伝えることの出来ないあの人が……、この人を呼んだの?
許してくれる?
あなたを忘れて……現実に帰っていくあたしを。

あたしは泣き続けた。

「ごめんね、ごめんね……」

鷹男は何も言わずに、あたしを抱きしめてくれた。
あたたかな、そして強い手で……ずっと抱きしめてくれた。
そして何度も何度も「お帰りなさい、瑠璃姫」と、あの人のかわりに言ってくれた。
泣きつかれて……あたしが眠りに落ちるまで。
何度も何度も……。



目を覚ますとあたしは屋敷にいた。
いつも遣いに来る権中将が、屋敷に来る途中、谷に倒れているあたしを発見して
慌ててつれ帰ったと、小萩は言った。
その権中将も陽が暮れる前にと、賢きあたりの文をおいて、すでに吉野を出立したという。

……夢だったのだろうか。
だとしたら、随分と都合の良い夢を見たものだ。

−お帰りなさい、瑠璃姫

あの、優しい声がこだまする。
吉野君の……鷹男の……声が、胸の奥に浸透していく。


あたしは、権中将がおいていったという文を開いた。
そこには……。

「瑠璃さま?」

はらはらと、流れる涙が、止まらない。
ひらり、ひらりと、ひらいた文から零れ落ちる花びら。


もういいから、お帰りなさい、瑠璃姫。
この花を見るたびに私を思い出してください。それで充分だから。
だから、お帰りなさい。


忘れてもいいと。
もう帰ってもいいと、あの人のかわりに、言いに来てくれた。

流れ落ちる涙が、桜の花びらに溜まっていく。

「たか…お……」

夢では、なかったのだ。
何の見返りも期待せず、ただ、あたしのためだけに、
夜も徹して吉野へやってきたのだろう。
それがどれほど困難な事なのか……わからないあたしではない。

京へ帰りたい……。
あの人に、会いたい。
会って……せめて、お礼を言いたい。
今度は、鷹男自身の声が聞きたい……。

濡れた花びらをみつめながら、鷹男の哀しそうな顔を思い出す。

今度は、笑ったあなたの顔が、見たいと、思った。

続く


イラスト提供:露香さま、文責:HAL