筋違橋門(浅草橋から万世橋へ)



JR総武線の浅草橋駅から江戸通りを南に少し歩き、神田川にかかる浅草橋手前右手にある浅草見附跡の標柱がある。 この標柱を江戸城三十六見附巡りの出発点として、次の筋違橋門に向かって出発する。

筋違橋門に向かう柳原通り沿いのビルには、衣料・繊維関係の会社が多い。 この柳原という街は、江戸時代から「古着といえば柳原」と言われるほど知れ渡っていたそうで、昔から衣料・繊維の街のようである。




関東郡代屋敷跡と柳原土手



関東郡代屋敷跡

【 関東郡代屋敷跡 】

浅草見附跡の石碑を見てそのまま浅草橋を渡ると、右手に建つ交番の横に関東郡代屋敷跡の案内板が立つ。

関東郡代とは主に関東の幕府直轄領の年貢徴収、治水、領民紛争の処理を行う役であり、馬喰町には訴訟の為地方から出てきた者が宿泊する宿が多かったそうである。

柳原通り

【 土手があった柳原通り 】

関東郡代屋敷跡から、西に向かって柳原通りが延びている。

江戸時代にはこの浅草橋門から神田川上流にある筋違橋門(万世橋付近)まで、約1.1キロの土塁が続いていた。 太田道灌が江戸城の鬼門避けに柳を植え、その柳が枯れた為、8代将軍吉宗の命により再度柳が植えられて柳原土手と呼ばれた。





レトロな看板建築が残る



看板建築が残る

【 看板建築が残る 】

柳橋通りを西に進み昭和通りを越えた右側に、NHKの「美の壺」で紹介されたレトロ感漂う看板建築が残っている。

看板建築とは関東大震災復興期に現れた商店建築スタイルである。 建物前面は、モルタルや銅板で装飾を付けた一見洋風建築。 しかし裏側は木造の和風建築である。 震災後、耐火性向上の目的でもあったようである。

看板建築




柳森神社の福寿狸



柳森神社

【 太田道灌が勧請した柳森神社 】

JR山手線のガード手前に柳森神社がある。 室町時代に太田道灌が江戸城の鬼門避けに多くの柳を植え、京都の伏見稲荷を勧請したそうである。

柳森神社の力石

境内には富士塚や力石も残っている。 この力石の説明によると、大正時代の力士であった神田川徳蔵とその一派が使っていたもの。 しかしどのくらい重いのか、重量の説明は記されていなかった。

柳森神社内の福寿社

【 金運を招くおたぬきさん 】

この神社は、なんといっても「おたぬきさん」が有名である。 境内の福寿社には5代将軍綱吉の母・桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像が祀られている。 「たぬき=他を抜く」として、立身出世や金運、勝負運にご利益があるとビジネスマンに人気がある。

しかしこの狸の像は、ユーモラスというより少し不気味な感である。

金運を招くおたぬきさん




万世橋と筋違門跡



筋違橋は現在の万世橋と昌平橋の間に架けられ、旧交通博物館建物のレンガ壁を突き破るような形で枡形の筋違橋門が築かれていた。

この筋違橋門は将軍が上野寛永寺や日光に出向く「御成り道」にあったので、御成門とも呼ばれていた。 都営地下鉄三田線に「御成門」という駅があるが、これは徳川家の菩提寺である芝増上寺裏門の別称である。




万世橋

【 万世橋 】

山手線のガードを越えると万世橋だ。

江戸時代には少し上流に筋違橋があり、ここにあった筋違見附を明治5年に取り壊した時に出た石材を再利用して万世橋を建築した。 当初は萬世橋(よろずよばし)と命名されたが、次第に現在の「まんせいばし」という呼び方が定着したようである。

交通博物館跡

【 交通博物館の跡 】

万世橋から上流の御茶ノ水側を見ると、赤レンガ建物の上を中央線が走っている。

以前は交通博物館であったが、更にその昔は甲武鉄道の万世橋駅であった。 万世橋駅の駅舎は辰野金吾による設計で、東京駅と同じように豪華なものだったそうだ。 しかし東京駅や神田、秋葉原などの近隣駅の開業により利用客は減少し、交通博物館を移設して駅は閉鎖された。

筋違橋門跡

【 筋違橋門跡 】

上の写真の赤レンガ建物の表側中央部に(川の反対側)、ポツンを案内板が立っている。 実際に筋違橋門があった場所を示しているが、今は振り返る人は誰もいない。

筋違見附跡案内板

【 筋違見附跡の案内板 】


筋違橋門と筋違橋は丁度この案内板の辺りにあり、将軍が上野寛永寺に墓参りに行くときに出入りした門である。 しかし現在は全くその面影はない。

筋違の名称は、江戸城から上野寛永寺に続く御成道と、日本橋からの中山道が交差する場所なのでこう呼んだのだという。