第三章 :転機 3
「母君の墓前に毎ってくるがよい」
ようやく冬を越え、暖かい日差しの日が増えてきた日、阿闍梨に呼ばれて、唐突にそう申し渡された。意図がわからずに様子を窺う私に、阿闍梨はいつものような厳しいお顔ではなく、穏やかな笑いをお見せになった。
「ここへ来てからもう5年になるが、まだ一度の里帰りもしておらぬのはそなたぐらいなものだ。そろそろ郷里に戻ってくるがよい」
「しかし、、、、」
会いたい人など、もう、あそこには誰もいない。
見知った顔もあるだろうが、何故、吉野を出たと問われても答える術もない。
このような墨染めの衣を目にかけたところで泣かれるのが関の山。
吉野はもう、私のいるべき場所ではない。
「そなたには、少し休息が必要なようだ」
はっとして、師の言葉に聞き入った。
「この頃は、特に物思いが続く日が多いと見える。いろいろと気ぜわしい事があるのは承知しているが……」
師は、兄宮から頻繁に送られてくる文の事も知っているのだろう。
「いい機会だから、郷里に戻って母君を供養してきなさい。
急いで戻って来なくて良い。言っている意味はわかるな?」
迷いのある心で修行を続けても意味がないと、師はおっしゃっておられる。
迷いを振り切って来いと、それまで戻って来るなという意味なのだろう。
「戻ってきたら、お前を律師に推挙する」
「それは!!」
律師になる。
それは、正式な僧侶として国に認められるという事である。
我ら修行僧は、便宜上、僧といっていても、正式には僧侶という身分ではない。
この地位を得てはじめて、正式な僧侶として律令に組み込まれてゆくのだ。
院内ではささやかな資格を得ていたし、律師への道はいずれ開けると思っていた。
しかし、今、この時、こんなに早くにその機会が訪れるとは思ってもいなかった。
辛い修行が楽になる。
暗く狭い坊で兄弟子たちと寝食を供にする日々から開放され、狭くても独房が与えられる。
多少の私物を置く事も、わずかな自由も与えられる。
望まれれば、別当として、どこかの寺院へ赴き住職となる事もできる。
ささやかな事だけれど、僧侶としての人生を生きていく上で、楽になれる。
「師よ! 私はまだそのような準備は出来ておりません!」
自身に足りないものがあることをやっと自覚したばかりだった。
迷い、この道をいくかどうかを、未だ逡巡し続けている。
そんな私に、資格があるとはとても思えない。
「すぐになれるというものでもないぞ。だが、お前は頭も良く、手も抜かず、辛い修行にも一心に励んできた。一介の修行僧として学ぶべき事はもう充分に学んだはずだ。次の段階に進む資格は充分にある」
「けれど、私は!」
師は、私に、笑いかけた。
「そなたは、もう、自分の至らなさをよく知っている。だから、今、なのだ」
戻ってきた言葉に、震える。
師は、私を見ていた。
何も語りはしなくても、ただじっと私を見ていたのだ。
けれど。
それは、もう、この道を引き返せないという事でもあった。
このままこの道を生きていく事を選ばなければならない。
兄がほのめかした還俗の道を絶ち、ここで生きていくことを、自ら選ぶという事に他ならない。
「覚悟を、決めてくるがよい」
今、選べと、師はおっしゃる。
だから、師は、この時期に、吉野へ行けとおっしゃるのだ。
選択の刻限が、迫ろうとしていた。
|