兄弟〜あにおとうと〜

第一章 :出会い 2

父帝の枕元へあがった私は、そっと父に声をかけた。

「お加減はいかがですか」

「悪くない……。もう皆を下がらせてくれ。おちおち休む事もできぬ」

父帝が乾いた声でそう申された。
そう、父に本当に必要なのは読経などではなく、休息だという事は始めからわかっていた。すぐに近習達をその場から払い、殿上の間には帰参の使いを出させる。

「ご無理が過ぎるのです。どうか御身をいとわれて、ご休養ください。この宗平で代われるものなら、何なりと致します。父上」

父帝は疲れているのだ。
若くして帝位についてから20年が過ぎ、この頃ではしきりに譲位を口にされる。
けれど、私の地位は盤若ではなく、父君は私の為にそれを思いとどまっておられる。
早く父を安心させる事の出来ない自分が悔しかった。

「そう思うなら早く次の東宮を設けて欲しいものだ。まあ、私はお前にあれこれ言える立場でもないが」

力なく自嘲されるのは、自身も長く私以外の御子をお持ちにならなかったからだ。
確かに、私に言えた義理ではない。
けれど、父上の言葉が、単なる揶揄以上の意味を持っている事を、私は承知している。

「そなたにもう少し確固たる後ろ盾が出来たら。せめて、梨壺の公子姫に新東宮に立てる親王が生まれたなら」

いつだったか、ただ二人、酒を交わすことを許された夜、そう漏らされた事があった。

父の御世は一見して安定しており、仮に父帝が譲位なされても、頼もしい後ろ盾を得た私が天子の座につくのに何の憂いもないように見える。しかし、私の東宮に誰を据えるかが重要な問題だった。

この春、私には、第一子となる皇子が生まれた。
この子は、絢姫という添い伏しに立たれた妃の腹で、姫の父・右大将はすでに亡くなっており、ひどく心もとない身の上の皇子だった。
長く仕えてもらった恩は感じているけれども、絢姫は、万事控え目な性格で、私の母宮のように、外敵から皇子を守っていけるような強い女性ではなかった。
後見を受けている公子姫との間に次の東宮をと望まれている事情も心得ているのか、晴れがましい身の上にもかかわらず、懐妊を知ってから「東宮さまにも、梨壺女御様にも申し訳ない」と伏して泣く事が多かった。
このまま、血筋も、後ろ盾も、強い母も、何一つ持たない皇子を東宮にしても、世が安定するとはとても思えなかった。
だいいち、この皇子がそれで幸せになれるとはとても思えなかった。

一方で、私には御歳3歳にならんとする歳の離れた異母弟がいた。
今、父が譲位という事になれば、我が息子より、弟・正良親王が次の東宮になる公算が高い。実家の財力も政治的権力も雲泥の差だった。
しかし、私には正良を次の東宮には出来ぬ事情があった。
大変な事がおこる事と容易に想像ができた。

正良の祖父・大海入道は先頃まで左大臣の職にあった男で、長年、皇位をめぐる様々な諍いごとに首を突っ込んで、国政を混乱させてきた欲深い男だった。勿論、それは彼の政治的一面に過ぎず、長く左の大臣の地位を得てきたのは、その政治手腕がそれなりに評価されていたからだ。
あの男は、念願だった自分の血筋を引く皇子の誕生に狂喜した。そして、すぐさま、後ろ盾のない皇子、つまり私の廃嫡に向かって動き出した。
でも、父はけして首を縦に振らなかった。

物の道理もわからぬ赤子を東宮につけたところで、あれが天子として飾りであってもそれなりの政務をこなすまでには、あと十数年の歳月を必要とするのだ。
外戚は、時に強い後ろ盾となる存在であるけれど、我らが皇族にとっては脅威でもある。
幼き者を天子の座につけて国政を我が物にされるような危険性は、冒せるはずもない。
せめて、正良がもう少し大きくなるのを待てればよかったものを。
あの老人はそれが出来なかった。

なりふり構わぬやり方に、とうとう父は母の進言を受けて右大臣に密かに頭を下げ、公子姫を私の女御に貰い請けて後ろ盾となした。正良の立太子が事実上困難になった事を知ったあの男は、短気をおこして左大臣職を辞して出家した。
私も母宮も胸をなでおろしたものだ。

が、大人しく隠遁生活を送っていればよいものを、未だに、権力を捨てきれずに息子の新左大臣を通してあれこれと横槍を入れてくる老獪は、隙あらばと私の失脚を狙っている。
仮に、私が帝位について正良を東宮に定めたとしたら、あの男は、何か陰謀を企てて私に譲位をせまるに違いない。そして、正良の外祖父として権力を欲しいままにする気だろう。
あの老人は、正良が大人になるのを静かに待てない。
そうであるから、父帝も私も、大海入道が元気なうちに、正良親王を東宮に推挙するわけにはいかないのだ。
愚かなあの老人は、自分こそが正良の障害であることに気付いていない。
そして、たった一人の弟を退けねばならぬ、私の胸のうちも、理解できない。

そんな事情があって、私は、父を安心させ、ひいては国家を平らかに治めるために、一刻も早く強い後ろ盾を持つ皇子を得る必要があった。
けれど、皇子を産んでいただきたい方には、入内して3年、未だにその兆しは見えない。
右大臣に遠慮して、非公式にではあるが御櫛などに有力な家の姫を配してはみたが、そちらにも気配はない。

今、私に出来ることは、それぐらいしかないというのに。

私は、無力感に唇を噛み締めながら、ただ頭を下げて、父の元を辞したのであった。



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