兄弟〜あにおとうと〜

第一章 :出会い 3

清涼殿を辞した私は、母宮のおわす常寧殿へ向かった。
御簾を払って、不安そうな顔を覗かせてかけよってきた母に、父の様子を知らせる。

「大丈夫です。少しお疲れで風邪をこじらせてしまいましたが、これといってどこか悪いわけではないのです」

「お風邪を召し易くなったという事が問題なのです! ああもう、夜にならねば主上の元へ行けぬとは口惜しいこと」

扇で膝を叩いてイライラを紛らわせる母宮の姿はいつものこと。
皇統に連なる高貴な方とは思えぬその闊達さは、あまり褒められたものではないが、母の良いところだと思う。
気丈な母だからこそ、私もここまで守っていただけた。
そうでなければ、私の皇子のように、本当に誰からも見向きもされぬ存在であっただろう。

「宗平殿、早く主上の肩の荷をおろさせてあげなさいませ。こうなったら、どこの姫でもいいから早く御子を設けなさい。でなければ、おちおち見舞いにもいけない」

母宮は、見舞いに行きたいから早く譲位させろととんでもない事をおっしゃる。
勿論、「帝」であることが、父の疲れを堆積させているという事を承知の上で、明るくおっしゃっているのだと、私には推察できる。

「さきほど、父上にも、早く次の子を設けろと、お説教を受けてしまいました」

「本当にその通りですよ。ただし気の弱い方はいけませんよ。それでは同じことの繰り返し」

母宮も絢姫の事が気がかりなのだろう。
自分がそうであったから、あの方には強くあって欲しいと願っているのがわかる。しかし、その願いは叶わない。誰しも、同じ立場で同じ事が出来るわけではないのだ。
すべては皇子の成長次第だが、あの姫と皇子は、いずれ政争の外に出してひっそりと暮らさせるほうがよいと私は思っている。

「だいたい、父上と母上が悪いのです。せめて私の弟なり何なりが、他にいらっしゃればこのような面倒な事にならずに済んだのです。17で御子が一人でもいれば、私は父上より優秀ではありませんか。私ばかりに責めを負わせるのは酷いと思いませんか?」

私は笑って口応えした。
こういう事は思いつめても仕方がない。
いずれなるようにしかならないものだ。

「本当にねえ。そればかりは、宗平殿にも申し訳ない事をしたと思いますよ」

扇を大きく開き、ふうと溜め息を漏らした母宮は、どこか物思いに沈んでいた。
何か失礼な事を申し上げてしまっただろうか?

「あなたにはね、弟が、もう一人いたかもしれないのですよ……」

母が、ふと呟くように漏らした一言に、私の胸が早鳴った。

「どういう事です?」

「い、いえね。いたかもしれないし、いなかったかもしれないし……。そもそも男か女かも定かではないことなのですよ」

少し顔を赤らめ、珍しく言いよどむ母宮を、それでもいいからお話くださいと、先を促した。
私が、長年、弟が欲しかったのを、母は知っている。
大人ばかりの内裏の中で、幼き日々に、心を許す事ができたのは、亡くなった先の帝が設けた歳近い叔父や叔母−そう言ってはご本人達は気を悪くなさるほど若い方ばかりだけれど−だけだった。あまり権力にかかわりなく、身分も後ろ盾もない方達だったので母は安心して私を遊ばせられたらしい。先帝のご威光が薄れるにつれ散々となり、近頃では内裏の内と外で会う事も叶わなくなったけれど、彼らと僅かに遊んだ記憶だけが、幼な友の記憶だった。
もしも弟がいたなら一緒に遊べるのにと、幼い私は何度となく思ってきた。

そして今、わたしの周りには国の将来を担う若い公達たちが幾人もおり、それぞれに心を通わせているけれど、彼らにとって私は「東宮」であって、心の許せる友でも、兄弟でもない。
私はずっと何でも話せる兄弟が欲しかった。

正良とは年も離れすぎているし、あの祖父のせいで滅多に顔を会わせる事も叶わない。
けれど、もしも本当に兄弟がいたというのなら、その者はどうだろう?
私には淡い期待のようなものがあったのだと思う。

パチンと扇を弾いて、母宮が、人払いを命じた。
しずしずと女房達が簀子縁の向こうに消えていき、残された絵式部が、キーと音をたてて格子戸をおろした。 部屋には私たちは3人きりになった。

「あなたも一児の父になられた事だし、知ってもいい時期なのかもしれません」

扇をもてあそびながら、しばらく逡巡したのち、母は口を開いた。

「わたくしに異母妹がいる事はご存知だったかしら?」

初耳だった。私は首を振って答える。

「そう、あれは、内裏が火事にあってわたくしの実家が里内裏となった年、あなたが生まれた年のことでしたわ……。」

母は、語りだした。
里内裏となった実家で母が懐妊していた時、母の異母妹が父上と道ならぬ恋をした。そして、諸々の状況から、おそらく御子を宿していたらしい。外聞を恐れ、母に遠慮して、朝霧の彼方に消えたその方は、母がどんなに手を尽くしてもとうとう手がかりすら見つけられなかった。
主上はわたくしがすべてを知っている事などご存知ありませんけれどねと、母宮は自嘲なさった。遠慮する事はなかったのに。あなたに寂しい思いをさせずに共に成長させられたかもしれないと思えば、わたくしはそれでも構わなかったのにと、行方知れずの異母妹に対して、母は口惜しそうに漏らした。

「すべて遠い昔の話ですわ。本当に御子がいたかどうかも、わかりはしないのです。今更、見つかったところでどうにもなりません」

けれど、母にとってその方の事は、長年の気がかりだったのだろう。
目頭を袖で押さえ、喉を震わせながら、語る母を、黙ってみていた。

探し出してみようと思った。
生きているとしたら年の頃は16歳。
見つかるとも思えないが、もしも弟なり妹なりがいるとしたら。
父も知らず、苦労していることだろうと容易に想像出来た。
弟妹をそっと見守る事ぐらいは許されるだろう。
何か困っている事があれば、密かに後見して差し上げたい。

まさか、こんな近くに弟がいて、私を憎悪の目で見ていたなどと。
両親に愛されて育った私をひとりぼっちで見つめていたなどと。
私は、知りもしなかった。
彼の辛さを、何も、知りはしなかった。



上へ 戻る 次へ