兄弟〜あにおとうと〜

第二章 :再会 1

読経をしている時間が私は好きだ。

望まぬ出家をしてから五年余り、仏の道とは何なのか未だによくわからない。
愚かな憎しみや迷いを捨てきれず、心を凍らせないと生きていけない私には、まだまだ到達する事の出来ない道なのだと思う。
けれど、こうして読経をしていると、とても気分が落ち着く。
私の中のあらゆる感情が何処かへ行ってしまい、誰も憎まず、何も望まず、ただただそこにいるだけの存在になれる。
これが無我の境地というものなのだと思う。
だから、辛い修行の中でも、この時間はとても好きだ。

しかし、読経を終えて目を開いてみると、俗にまみれた私は、かすかに得られたその感覚をすぐに失ってしまう。
また、愚かな感情を抑えられぬ自分に逆戻りしてしまう。
一体いつになったら、滅私に至れるのだろうか。

−−早く心など消えてしまえばいいのに。

そう思いながら、今日も読経を続ける日々。


「やはりここにいたのか、唯恵」

人の気配に目をあけると、兄弟子がそこにいた。

今は、僅かな休息の時間。
入門当初は寝る間以外に一刻の休息も許されなかった。
位をあげたことで、この頃は、僅かに私的な時間を許されるようになった。
ある者は同輩との雑談を楽しみ、またある者は郷里に文を書き、それぞれに過ごす時間。
私はいつもこうして護摩壇の傍にたたずみ読経にあけくれる。

「お前は本当に読経が好きだな。暇さえあればそうしている」

感心するようにあきれるようにそう言う兄弟子に私は薄く笑った。

この寺院は学問を修める機会を得られる数少ない寺院で、修行僧の中には貴族の子弟が多く含まれている。
彼等は私と同じようにそれぞれに事情があり、ここで生きていかざるを得ない人々で、せめて荒行ではなく学問を、という僅かな親心でここの寺に預けられた。
僧侶とひとくちにいっても、自ら道を求めて来る者たちとは気構えも違う。

ここは、俗世ではないのに、権力欲や様々な思惑が入り乱れている不思議な場所なのだ。
ここで学問を修めて位を上げ、いずれはどこかの別当なり住職なりに落ち着いて身を立てていく事が、彼らにとっての人生。
あわよくば、門主・慈源阿闍梨のように、帝や有力貴族と懇意にしてその地位を固めてゆく事もできる。求道者になりきれない彼らとすれば、それは最良の道なのだろう。
そして、そのとっかかりを私が掴んでいた。

もともと、同じ修行僧といっても、都の貴族の縁者と、吉野という片田舎から来た名もない受領の縁では格も違う。入門当時は、辛い仕事を押し付けられたり、随分と苛められもした。
だが、修行に打ち込み続けなければ自分を保つ事の出来ないほどに弱かった私は、一心不乱にこの道に打ち込んできた。
そうして気がつけば、同輩の誰よりも位を進めていた。
格下だった私が、彼らの上席に座り、あまつさえ阿闍梨の従者に推挙されたのだ。
出世欲だけは一人前の兄弟子達は、俗事に関わらずお高くとまって見える私がさぞ煙たいのだろう。
半ばあきれながら、あれは別格だ、聖人様なのだと、影でそしっている。

押し殺した表情の下にある誰よりも醜い思いに、誰も気付きはしない。
こうして祈っていなければ、心を保つ事もできない私は、経に逃げているに過ぎない。
私にとって、仏の道とは、すべてを忘れるための道。

「阿闍梨がお呼びだ。」

兄弟子の言葉に立ち上がる。

「ありがとうございます。すぐに参ります」
「客が来ている。身分を隠しているが、名のある方のようだぞ?」

どうでもいい事を耳打ちされた。
阿闍梨の元へいらっしゃるお客様は、高位の方が殆どだ。
誰が来てもそれなりの対応を心がけている。
眉を寄せている私に、兄弟子は不遜な笑いを見せた。

「あれは東宮様だと、大善律師がつぶやいていたんだ」

私の体から冷たい汗が吹き出るような、そんな感覚に襲われた。

「お前は確か東宮様もご存知なんだろう? あとで教えてくれよ。お忍びで自らいらっしゃるなんて、一体どんなご用件なんだろうな!」

一体どんな用で、ここに来たのだろうか?



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