兄弟〜あにおとうと〜

第二章 :再会 2

実の父である帝が病に倒れたのは、もう数ヶ月前だったか。
私が参内を許されてから、あのような大掛かりな加持祈祷を行うのは初めての事だったと思う。
これまで、年に何度か、法会や、阿闍梨の講釈の折りに従者として御簾越しに対面を許されていたが、横目で衣を目にしたりや、燻る香り感じる事がせいぜいで、まともに顔を見た事すらなかった。
その父が、青い顔をして寝台に横たわっている姿を初めて目にした。
父の弱った姿を目にして、ひどく動揺した。

もしもこのまま儚くなってしまうような事になったら。
私が今まで抱いてきた恨みや憎しみは一体何処へ行ってしまうのだろう。
まだ折り合いをつけられないこの慟哭をいったい、どうすればいいのだろう。
愚かにもそのような感情に囚われて、食い入るように父の御座所を見つめていたように思う。
読経が始まっても、いつものように、平静を取り戻す事は難しかった。
人に気取られぬように必死に読経を続けはしたものの、どんな経文を読んでいたのかもあやふやで、夢の中にいるような感覚だった。
すべてが終わった後も、私は、石のように重たい体をかかえて呆然としていた。

その時、「宗平親王」と、あの兄の名が耳に入った。
兄は読経の邪魔にならぬように、端に控えていたらしい。
振り返ると、おもむろに立ち上がる姿が目に入った。
彼は当然のように御簾内に入って、父の傍に寄ってゆく。

父上、と。
私には決して許されない呼びかけをする異母兄。
親しげに言葉を交わす親子の姿がそこにあった。

その光景から目を離すことが出来なかった。

これまでも、内裏を我が物顔で歩く姿を目にしてきた。
誰からも認められた皇子と、兄を憎悪し、羨んできた。
けれど私は、何もわかっていなかったのだ。
父と兄が揃う姿をまざまだと見せつけられるまで、それは言葉遊びにすぎなかった。
彼には、その権利があり、私には、どんな権利もない。
その事を。

「父上……」

その言葉を皆の前で当然のように口にできる兄の姿を見るまで。
私は本当の意味では判っていなかった。

凍るように青い炎が、私の胸の内で大きく育ってゆくような気がした。。
心の底から兄が憎いと思った。
その後、何日にも及ぶ加持祈祷を、どうやって乗り切ったのかも、よく覚えていない。
それほど、父と、あの兄に囚われていた。

あの日以来、いっそう、読経の時間が増えたように思う。
数ヶ月がすぎて、やっと、あの親子の中睦まじい姿が、脳裏から薄れてきたというのに。

一体、何用あって、東宮はこの寺へやって来たのだろう。
阿闍梨は、私たちの関係を知っていて、なぜ、私を呼ぶのか。
せめて、密かに兄と言葉を交わす機会を与えようとでもいうつもりなのだろうか。
私にとって父の気配を感じる機会が、密かな喜びであると同時に、辛い苦悶の時間である事を、師はご存知ではない。
それだから、きっと、兄にもそういう配慮をなさろうとするのかもしれない。
兄弟でありながら、何も知らない尊大な兄に平伏しなければならない私の辛さを、彼に対する憎しみを、俗世から離れて長い師は、きっと知らないのだ。

どうしていいのかわからず、私は途方に暮れていた。
それでも、ぐっと唇を噛み締めて感情を殺し、師の待つ坊へ向かった。
しかし、そこには、兄の姿はなかった。
聞きなれぬ香りだけが、兄がそこにいた事を示している。

「とある高貴な方が、忍びでこの寺院へお越しになっている」

慈源阿闍梨は、私の顔を見ると、唐突に告げた。
その表情には何の感情も読み取る事が出来ない。

「伽藍を見たいと申されるので、たった今、大善律師が三社殿へ案内を申し上げた。かの方は好奇心旺盛で様々な事をお尋ねになる。急いで行って、そなたが説明申し上げるがよい」

やはり、師は私と彼で言葉を交わさせるつもりのようだった。
私は慎重に、断りを入れた。

「恐れながら、律師がお付きでは、わたくし如きが口を挟む必要もないかと思われますが」

「それがな。過日、内裏にてお会いした時の話になったのだ。あの折に、ひどく若い僧を見たと仰せになられ、私の愛弟子と申し上げたところ、若く有能な僧とぜひ話をしてみたいものと口にされた。若者と話をされるのがお好きな方なのだ。だから、そなたが参るがよい」

そう口にされては、否とは言えなかった。
師の思惑はわからない。
私はただ、それに従うしかなかったのだ。

三社殿への道のりを、急ぎ向かっていった。



上へ 戻る 次へ