第二章 :再会 3
参拝客には滅多に開かれない三社殿の入口には、数人の雑色が控えていた。
誰何するような目つきに、「阿闍梨から呼ばれて参りました」と軽く会釈をして、修行僧に許されている通用口から中に入った。
奥からは人の声が漏れてくる。
大善律師が、奥の間にある不動明王像の説明をしているようだ。
浅黄色の法衣を纏う後姿が目に入る。
その横に、烏帽子直衣姿の若者がこちらに背を向けて並んでいる。
あれが東宮・宗平親王なのだろう。
忍びでやってきたせいなのか、彼は若者らしい二藍の直衣を着こんで、そのあたりの貴族の子弟を装っていた。
それでも見るものが見れば、着物の質も色目もどことなく上品で身分を隠しきれていない。
音もなく進んだつもりだったが、兄は私を振り返った。
穏やかな眼差しが、私を見てふわりと笑ったような気がして、こちらは表情を硬くした。
「これが先ほど申しておりました唯恵でございます。過日、ご覧になられたというのはこの者でございましょう?」
東宮と言葉を交わす機会を得た大善律師は、心なしか日頃よりも表情が硬い。
張り付いた笑顔を高貴な人に向けていた。
「ああ、この者だ。やはり若いね。この年で阿闍梨の愛弟子とはさぞや、将来が楽しみな者なのでしょう?」
そういえば、兄が、私を目に留めたのだと言っていた。
この人に会うことばかり頭に浮かんで、なぜ?という疑問を持たずにここまで来てしまった。
私は、その場に座して頭を下げ、耳元にきちんと揃えた手のひらを空に向け、身分高き方にする正式の挨拶の形をとった。
私のような名もなき修行僧は、許しがあるまで顔をあげる事は許されない。
「そのようなお言葉をおかけになって鼻にかけられる様な事はどうぞなさいますな。」
「これはしたり。だが、私は有望な若者は好きだよ。しばらく借りてよい?」
「勿論でございます。若輩ではありますが、暇さえあれば伽藍にひたり、学問を進めておりますのでお役に立てましょう。何なりと」
私を無視して二人の会話は進んでいく。
「では、あなたはもう行ってくださって結構」
「とんでもございません。あなた様を放って勤めに戻りましたら、私が師に叱られます」
「もう用は済んだよ。ただの貴族の子弟ごときの散策に律師殿をつき合わせるのは忍びない。あとはこの若者に案内させるから」
忍びゆえ大げさにはするなと言う兄に、律師は「ですが」と逡巡する。
「律師殿は戻られよ。戻って自分の為すべき事をされるがよい」
しかし最後には、穏やかに、しかし反論を許さない東宮の言葉に、引き下がるしかなかった。お戻りの際には、どうぞ僧坊へお越しくださいませと、最後にそれだけを口にして、大善律師は去って行った。
この広い殿の中に、兄と二人きりになる。
しんとした空間に、兄の直衣の衣擦れの音だけが聞こえていた。
「面を上げなさい。そう硬くなる事はない」
許しがあったので、顔をあげる。
兄は、不動明王を見上げたままだ。
「見事だね、この像は」
いつまで見つめているのだろうと、兄の顔を凝視していると、ふいに言葉をかけられた。
はっとして、居住まいを正す。
「法仁大師がこの寺を開いた折、平城の都に座します大仏建立にかかわった仏師を呼んで作らせたものでございます。当時は、この辺りは大変な片田舎。この地にこのような小仏殿がある事は、民にとっての救いであったと聞きます」
時が過ぎ、あまりに貴重なので、いたずらに拝殿を許さず、古き良き彫り物は静かに安置されている。
「ここにきたら、必ずこれを見てくるようにと、ある方が申されてね。そうおっしゃった気持ちがよくわかるよ」
兄が敬語を使う相手は、わずか一握り。
それが一体誰なのかという事は明白な事実だ。
今は、職務の時間だからと、冷たい炎を、拳を握り締めて押さえ込んでゆく。
兄はその像がよほど気に入ったのか、じっと眺めてまんじりともしない。
かと思うとちらりと横目で私を見ては溜め息をつく。
この人は何がしたいのだろう?
「仏像がお好きなら他の殿にも案内致しましょうか。この寺には他にも由緒ある像がございます」
遠慮がちに声をかけると、こちらを向いた兄が、「いや……」と小さく頭を振った。
「いつまでも、誤魔化していても仕方ないな。何とl言葉をかければ良いのかわからなくて、ついな……」
私に近づいてくると、目の前で膝を折った。
思っても見ないほと近づいた兄から、思わず目を逸らしてしまう。
「仏像はどうでもいいんだ、本当のところ」
兄が私の手に触れた。
びくりと、体が震えた。
「お前に、会いに来たんだ」
その言葉に驚いて顔をあげた。
目元を潤ませている兄が目に入る。
彼は、唇を震わせながら、かすれた声で、こう口にした。
「会いたかった。宗唯」
宗唯と−−。
私の本当の名を、彼は呼んだ。
|