兄弟〜あにおとうと〜

第二章 :再会 4

「今まで気付いてやれなかった事を申し訳なく思う」
「ここでどういう暮らしをしているのか、知りたかった」
「辛い事はないか?」

潤んだ瞳で語りかけてくる兄の言葉が、耳から耳へと素通りしていく。
あまりに意外な出来事に、私の思考は止まったまま、動き出そうとしない。
間の抜けた顔で、ただただ兄の顔を穴が空くほど凝視していた。

「私に弟がいるかも知れないと知って探したんだ。
どこに居るかわからない弟を探していたんだ」

兄は、ここへ来るまでの経緯をかいつまんで口にする。
皇后が義弟の存在を示唆した事。
母の里を探って私の存在を確信した事。
その後、行方知れずの私を探して、とうとうここへ辿りついたという事。

「な……何を、馬鹿なことをおっしゃいます。恐れ多くも……」

やっと搾り出したのは否定の言葉だけだった。
私には家族はいない。
もう、どこにもいない。

「隠す必要はない」

私の言葉を兄は強く遮る。

「すべて知っている。5年前に何があったか。なぜ、そなたがこうして仏の道に進まなければならなかったのか。父は多くを語らなかったが……」

では、父が私の存在をこの兄に認めたのか。
息子は宗平親王ただ一人と、私の前で言い切ったあの父が、捨てた息子を認めたというのか。

はらりと……、頬を熱いものが伝って落ちた。
凍るようと称された私の瞳から、氷がとけてゆく。

「辛い思いをさせた……」

兄の声も詰まっていた。
私はまだ飲み込めない事態に混乱しつつ、言葉もなく、流れ落ちる涙をはらう事もなく、ただただこの兄の姿を見つめていた。

「すべて、私のせいだ。すまない……」

もう一度、強く手を握られた。
触れる事はおろか、直接、顔を見る事も許されなかった尊い身の兄が、私の手をしっかりと握る。

「宗唯」

私の名を呼ぶ。

「許せ……。それしか、伝える言葉のない兄を……、どうか、、、」


その時、私は、兄の手を払い、反射的に立ち上がった。
思ってもみない抵抗にあった兄は、尻をついて私を見上げる。
涙のあとにやってきたのは、怒り。
ふつふつと、氷の下で煮えたぎっていた、青い青い炎が噴出してくる。
溢れ出た感情はもう止めようがない。

「許せと?」

低い声で、問いかける。
兄が私の言葉に大きく目を見開く。

「今更そのような言葉が何になる?」

許せと、たった一言で、済まされるような日々ではなかったのだ。

なぜこんなところで一人でいなければならなかたのか。
理解するまでに、とても時間がかかった。
まだ日も昇らぬ冷たい寺社の廊下を、霜焼けで真っ赤になった両手を擦り合わせて、目的もなく磨き続ける日々。
兄弟子達は、阿闍梨にそれとなく目をかけられている私を疎んで、陰湿な虐めを繰り返した。いわれない中傷や濡衣が悔しくて、暗い回廊の影に座り込んで涙してきた。

すべてを受け入れる頃には、涙も枯れ果て、どんな事にも突き動かされぬ乾いた人間になっていた。そうでなければ生きてゆけぬぐらいに、辛かった。

それでも父に会いたくて、努力して位を上げ、やっと内裏に参内を許されてみれば、目に入ってきたのは努力もせずに当然のように父の傍にいるたった一人の兄の姿。
望んで手に入らぬ物は何一つない傲慢な兄。

兄になりたかった。
羨ましくて妬ましくて。
兄のせいではないとわかっていても、私の憎悪は彼ひとりに向けられる以外なかったのだ。

許せと、今更、そんな一言で納得できるような5年ではなかった!!


「やはり……憎んでいたんだな。」

私の形相を見入っていた兄は、静かにそう口にする。
想定していた状況とでも言いたいのだろうか。
あなたにこの辛さがわかるとでも言うつもりか。
ならば、予想通り、あなたを非難してさしあげよう。
私のこの怒りを、憎くて憎くてどうしようもない、この兄に、思い知らせてやる。

だが、兄から戻ってきた言葉は、あまりにも……。
私が長年思い抱いてきた、尊大な皇子の言葉とは違いすぎた。

「憎んでくれていい……。それでも。お前が生きていてくれて良かった」

呆然として、力なく、そこに座り込んだ。
兄が私に近寄り、強く肩を抱いた。

その腕を払わなければならない。
今こそ兄にこの憎悪をぶつけなければならない。
そう思うのに。
わたしの腕は鉛で押さえられたように動かない。
兄の腕から逃れる事ができない。

「宗唯。会いたかった。お前に、会えて良かった」

ずっと、誰かに必要とされたかった。
恋しい少女を失い、父に否定され、母を失い、曽祖父を失い……。
穏やかな幸福をも許されず。
この冷たい寺社の片隅で一生を終えるだろう私を、誰かが救ってくれないかと、甘い夢を未だに見る時があった。
それは父だったり、逝ってしまった母だったり、あの少女だったりした。
そんな日が来る事はないと知っていたけれども、せめて夢で会う事だけが私のささやかな救いでもあった。

この兄が、救いに来るなどと、一顧だにしなかったのに。

「これからは、私がそなたを守る。今は、皇子として認めることは叶わないが、政局が安定したら、必ず迎える。皇族が窮屈ならどこかの貴族としての地位を与えてもいい。私に出来る事なら、何でもする。お前の望みはかなえる」

喉から手が出るほど欲しかった言葉を、兄が口にする。
憎んで憎んで、心の中で何度も殺してきた兄が、私を救うという。

兄は、しかと私の肩を抱き、同じように涙を流していた。

「宗唯」

私の本当の名を何度も呼ぶ。
そのたびに、簡単にその男に突き動かされていく私がいる。
ただただ憎いはずのその男の言葉が、私の胸に浸透してくるのがわかる。
もう私には、どうしていいのかわからなかった。



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