第二章 :再会 5
−るりひめ……。
私は自然と、かのひとの名を呼んでいた。
もしかしたら、あの少女にまた会えるかもしれない。
兄が私をここから救い出してくれて、再び会えるかもしれない。
そんな淡い期待が、頭をもたげてくる。
けれど。
私の中に、未だにあの日の事を悔やんで泣いている少年がいる。
あの少年が叫んでいる。
騙されちゃいけない。
僕はそうやって大切な人達を失ったよ。
甘言にそそのかされて、すべてを失ったんだよ。
しかし。
兄の言葉に、一辺の真実もないのだろうか?
この兄が、私を、救ってくれるという言葉に、何の誠意もないのだろうか?
だめだよ、信じちゃいけない!!
だって父上は言ったじゃないか!
僕は息子じゃない、息子は宗平親王ただ一人だと言ったじゃないか!
彼は泣きながら、訴えている。
こいつの言う事を信じてしまうの?
そんな事で許してしまうの?
この五年の思いを、そんなに簡単に捨て去っていいの?
様々な事が脳裏に浮かぶ。
辛くて思い出したくもない日々。
それを……、許してしまっていいの?
「−−人違いです。お引取ください」
走馬灯のように流れてゆく日々を追いながら、ようやく私の口から出てきたのは、そんな言葉だった。
兄の表情が、強張った。
私は無常に兄の手を払いのける。
「昔、宗唯という子供がいました。ですが、その者はもうこの世の者ではありません。
俗世の出来事は、すべて夢幻。この唯恵にはかかわりのない事でございます」
「宗唯……」
「恐れ多くも東宮様がこちらにおいでくださった事、感謝いたします」
床に額を擦り付けて平伏した。
兄と目を合わせたくない。
そのためなら、頭を下げるくらい何でもない事だ。
「仏の道をゆくこの身には身内などありません。今更、俗世の事などに煩わされたくもございません。どうぞ、お引取を!!」
兄は、そんな私にかける言葉が見つからないのだろう。
そのまま、気まずい沈黙が続いた。
しかし、私はけして面を上げなかった。
これ以上、情けない泣き顔を見られたくなかった。
長い時間をそのままの姿勢で過ごした。
兄は私が面を上げるのをずっと待っていたのだろう。
庭園の獅子おどしの音がカツーン、カツーンと響く音を何度も聞いた。
どこか遠く、回廊を過ぎてゆく人の声や、鳥のさえずりが聞こえる。
目の前にいる兄の気配を必死にそらすように、それに聞き入った。
「また来る」
長い沈黙の後、静かな声が降りてきて、衣ずれの音がした。
ふわりと、兄のまとう香が燻る。
「いらしても、もう二度とお会いするつもりはありません!」
背中に声をかけた。
「それでも、また来る」
苛立つ想いが湧き上がって、頭を上げて兄をねめつけた。
私を振り返っていた彼と視線が重なる。
その目が、痛ましい者を見るかのようで、かっとする。
「あなたに哀れんでもらうほど、無様な生き方はしてきていない!」
なぜか、兄は笑った。
「弟を心配するのに、どんな理由も要らない」
「兄などいない! 私の身内など、この世にはもう誰もいない!!」
優雅に、頭を左右に振る。そして笑いかける。
「それでも。おまえは私の弟だ。だから、行く末を見守る」
ぴしりと、私の反論を聞きもせず、扉を閉められた。
「まっ……」
置いていかれた私は、兄を引き止める言葉を口にしそうになって、慌てて口を閉じた。
引き止めてどうする?
これでいいじゃないか?
玉砂利を踏みしめる音がする。
去ってゆく兄に、控えの者達の足音が追いかけていく。
その気配が何処かに消えるまで、耳でついつい追ってしまう。
どさりと、行儀悪く、柱に寄りかかった。
立ち上がる気力も失われていた。
いつまでそうしていたのだろう。
幾度か、鐘の音が鳴った。
まもなく勤めの時間がやってくる。
私を探す声がないのをいい事に、勤めを放棄した。
耳慣れた勤行の声と規則的な木魚の音が寺院全体から響いてくる。
放心した心のまま、重なるように、読経を口ずさんでいた。
けれど、ちっとも心はここにはない。
何も考えたくないのに、無我の境地には至る事が出来ない。
兄の姿が消しても消しても脳裏に浮かぶ。
−−−おまえは私の弟だ。だから、行く末を見守る。
雅な声が、私を包んで離さない。
兄が残していった聞きなれぬ香りがこの社を支配している。
自分で自分の体を抱きしめていないと、心のどこかを持ってゆかれてしまいそうだ。
いつまでたっても止められない涙に自嘲する。
「私にもまだ流せる涙がこんなに残っていたのだな……」
そんな事が可笑しくてたまらなかった。
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