兄弟〜あにおとうと〜

第三章 :転機 1

私の時間は11歳のあの時から、長いこと、止まっていたのだと思う。

父に自身を否定されたあの日から、私は諦め、流されてゆくしかなかった。
後悔、悲しみ、憎しみ、妬み、愛惜、嫉妬、憎悪。
言葉で思いつく限りの負の感情を封じこめ、この諦めの人生を生きていくはずだった。

けれど、私がまとってきた氷の鎧は、兄によって、簡単に溶かされてしまった。
感情があとからあとから噴出してきた。
その瞬間、止まっていた時も、ゆるやかに動き出した。

はじめに襲ってきたのは、兄に対する激しい憎悪の感情だった。
彼は我が不幸の象徴だった。
対峙した兄を傷つけ打ち砕く事で、その感情は昇華されてゆくはずだった。
なのに、私はそれが出来なかった。

彼は、私が思っていたような傲慢な皇子ではなかった。

私に気付いてくれた。
生きていてくれて良かったと言った。
私を救うと口にしていた。
望む地位を与えるとも言った。
お前は私の弟だと、はっきり言った。
彼は、私が欲しかった言葉の全てを与えてくれた。

思慕の情が沸かなかったといえば嘘になる。
私とて、いつまでも物の道理のわからない少年ではいられない。
あの兄の姿に、一辺の誠意もないとは、とても言えなかった。
かといって、彼を許すことなど出来そうになくて、
兄を拒否し、私に兄弟はいないと追い返す事が精一杯だった。

飲み込めない事態に思考を停止しようとした。
彼の事など忘れてしまいたかった。
彼がやってくる前の無感動な自分に戻りたかった。
けれど、私を堰き止めていた氷が消えてしまった今では、それも出来ない。
止まっていた時間は、確実に流れ出していった。


戸惑う私の感情を置き去りに、日々は変わりなくやってくる。
何とか勤めに没頭し始める。
けれどふとした隙に、彼の言葉を思い出した。

−望むなら貴族の地位を与えてもよい。私で出来ることなら何でもする。

兄はそう言っていた。
こういう生き方しか許されなかった私の人生を、正そうとしていた。
あの時、彼をはっきり拒絶したというのに、心が迷う。
兄を退けた事を後悔する打算的な自分に気付いた。

私にはかの少女への未だ捨てきれぬ思慕があった。
恋ゆえに道を誤り、墨染めの衣を着せられた私には永遠に手の届かない筒井筒の姫。
もう14歳になる姫は、まもなく妻問いを受け、人のものになってしまう筈だった。
姫は、少女期を供に過ごした子供の事など、きっと忘れてしまっただろう。
私にしても、あの日から随分遠くへ来てしまった。
私がこんなにあの姫が懐かしいのは、幸せな時代の象徴にすぎないのだと思う。
もう諦めたはずだったのに。
もしかしたら手に入るかもしれないという期待が、私を駆り立てる。

もう遅い。
いや、間に合う。

私の中で逡巡する想いが、兄が投げかけた還俗への道を捨てきれない。
兄など利用すればいいじゃないかと、薄暗い感情がもたげてくる。


一方で、努力して手に入れた今の平穏を失うかもしれない恐怖が胸を突く。
辛く暗い道だが、それでも私がこの手でやっと掴んだ道だった。
せっかく手に入れた居場所を私はまた失うのか?
そうまでして、かの姫を手に入れられなかったら、私はどうなる?
貴族としての生き方も、皇族としての所作も、なにひとつ知らない私が、この世の荒波に放り出されて、今更どのように生きてゆくというのだ?
そう思うと、不安で不安でたまらない。

私には兄の言葉を封印し忘れ去る事はどうしても出来なかった。
なぜなら、それは私にようやく与えられた選択の機会で、そして最後の機会だったから。
私は今、誰にも言い訳のできぬ機会を確かに、与えられていた。
けれど、そのためには憎い兄の手を取る必要があった。
あの男を許せぬまま、頭を下げるなど出来るわけもない。
私の中に残る僅かな矜持が、それを許してくれずに、私は苦しみもがいていた。


兄からの文が届くようになったのは、そんな逡巡を繰り返している最中だった。

最初の文は使者の前で破り捨てた。
大人気なさを使者に咎められ、次の御文は黙って受け取り、焚き火にくべた。
幾度かそうしたところで、冬も深くなり、焚き火をする機会がなくなった。
相手が相手だけに、単に破って捨てる事も出来ずに、文箱にそのまま放置するようになる。
あまりに頻繁に届くので、何をそんなに書く事があるのだろうと気になって仕方なくなった。
手にとっては文箱に戻し、新しい文を手にしては無理矢理そこに詰め込む。
その数がいよいよ増えていった。
いつの間にか文箱がいっぱいになって対処に困った。

ある時、意地を張るのも馬鹿らしくなった。
読まないから気になるのだ。
いっそ読んで捨てればいいではないかと思い至って、ひとつ開いてみた。

上質で上品な懐紙に書かれた若々しい手跡は確かにあの兄のものだと彷彿させた。

こちらでも雪がちらつき始めました。
吉野育ちのあなたにはこの程度の雪はなんでもないのでしょうか。
私には寒さが酷く応えるので、庭に出て蹴鞠に励んで体を温めています。
風邪など召さないよう、あなたもお気をつけください。 
                            宗平

寒さが厳しい折ですが、修行は進んでおられますか。
こちらは正月の行事が細々とあり、気ぜわしい一日を過ごしております。
会いにゆきたいという気持ちはありますが、なかなか体が空きません。
どうぞ、ご健勝にお過ごしください。
                            宗平

先日、慈源阿闍梨が参内された折に、ひと目、姿を見れるかと思いましたが、見当たらなかった事、残念に思います。
風邪でも引かれていたのでしょうか?
修行の身では御身大事に過ごす事もままならぬであろうけれども、
くれぐれも体を労わるようお気をつけください。
                            宗平

内裏にある梅の木がひとつ、蕾をつけているのを見ました。
もうまもなく春がやってくるようです。
この冬は、例年になく雪が多く、民は凍えていたと聞きます。
修行の身では暖を取る事も苦労されていたのではないでしょうか。
やっと春がやって来ます。
あなたにとって過ごしやすい日々が続く事を祈っています。
                            宗平

とても短い文だった。
気負いもなく淡々と綴られる季節の移り変わりと、兄の日常と。
兄は一日を最後を締めくくるかのように、その日あった事を書いて寄越しているのだろう。
そして、ついでのように私をいたわる言葉を添える。
返事をしない私を責める言葉は何一つない。

それは、毎日、何気ない日常の中で私を思い出しているのだと、暗に語りかけてくるかのようだった。

懐紙の中に、ぽたりと、私の涙が滲む。

これが兄のやり方なのだ、姑息なと、何度も思った。
けれど私は優しさに飢えていたんだ。
こんな優しい文を、私は誰からももらったことがなかった。
それどころか、これは、世を捨てた私が初めてもらった文だった。

兄を許したわけではない。
我が身の不幸を納得出来たわけでもない。
けれど。

捨てる事はもう出来なかった。
無視する事ももう出来なかった。
月に何度か送られてくるそれを、私は静かに受け止めるようになった。
兄からの手紙を、かの人がかける私への労いの言葉を、私は、心待ちにするようになっていった。



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