板橋宿にある縁切り榎の説明板によると、「嫁入りの際、縁が短くなることを恐れ、縁切り榎の下を通らなかった」と説明されていた。 また現在の環七交差点付近から、富士見街道、日曜寺門前から愛染通りを経て、板橋宿の上宿に至る迂回路があったとも書かれていた。
いろいろ調べると、幕末の皇女和宮降嫁時には、この迂回路を通ったという説もあるようだ。
これを知ってビックリである。 この迂回路にある愛染通り沿いで私は生まれ育ち、日曜寺というお寺は遊びの中心地だったからである。
旧中山道とか縁切り榎の存在は知っていたが、自分の住む家の近辺が、このような歴史を持っていたなど知る由もなかった。 今回は懐かしい故郷再訪を兼ね、板橋宿から迂回路を経由して浦和宿を目指すこととした。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 実距離 | 手段 | 万歩計 | ルート | 備 考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2014/9/22 | 板橋宿~蕨宿 | 2里10町 | 8.9Km | 9.4KM | ![]() |
25,189歩 | Map | 蕨宿で万歩計を見ることを忘れた。 |
蕨宿~浦和宿 | 1里14町 | 5.5Km | 4.8Km | |||||
合 計 | 3里24町 | 14.4Km | 14.2Km | -- | 25,189歩 | |||
日本橋からの累計 | 6里6町 | 24.2Km | 25.3Km | -- | 50,652歩 |
子供の頃の思い出の地を歩くことも兼ね、縁切り榎から今回はスタートする。
縁切り榎の少し手前を左折し、17号を越えると愛染通りの商店街である。
この愛染通りを進むと智清寺(左)があり、少し先で右に曲がると日曜寺(右)がある。
日曜寺の石橋 このような石橋は智清寺にもある。
「昔は川が流れていた」と親に教えられたことを覚えている。
【 子供の頃の思い出 】
日曜寺の近所で生まれ育った私にとって、日曜寺は「愛染(あいぜん)さま」の愛称で遊びの中心地であった。 仲間同士でかんしゃく玉とパチンコを持って日曜寺の塀を乗り越え、境内で戦争ごっこである。 パチンコで相手を狙ってかんしゃく玉をぶっ放すので、皆ギャーギャー言いながら必死に戦っていた。
やがてお寺の住職らしきお爺さんが、怒りながら杖を振り回して追い払いに出てくる。 我々は雲の子を散らすように、塀を乗り越えて逃げ出すのであった。
今から考えればずいぶん悪ガキだったが、当時(1960年前後)の遊びはこんなものだったろう。
環状7号の富士見街道交差点を渡るが、ここは通った中学の通学路。
迂回路は交差点の先にあるマンション横の細い道を行く。
国道17号沿いに立つ、色鮮やかなビル。 このような新しい建物も面白い。
志村一里塚。 ここは国道17号を挟んで両側に立派に残っている。
写真奥の古い建物は斉藤商店。 一里塚に良く似合う建物である。
志村坂上の交番から左に入ると、やがて昔は難所と言われた清水坂を下る。
道は下りながら左にカーブし、中山道で唯一右手に富士山が見えた場所らしい。
舟渡の板碑 新河岸川に架かる浮間橋を渡り、1本右手の道沿いにある。
鎌倉・室町時代に、親の供養などの為に作られた石製の卒塔婆だそうだ。
荒川に架かる戸田橋を渡る。 ここから埼玉県である。
水神社と戸田の渡し跡
浅田次郎の小説「一路」では、この水神社にお参りした後に、渡しで事件が発生する。
17号をしばらく歩くと、蕨宿入口を示す石碑と、大木戸をかたどった門が迎えてくれる。
蕨宿内の歩道に埋め込まれた円形道標と、中山道六九次宿場のタイル。
蕨市立民族資料館の隣には、蕨本陣岡田家の門が復元されている。
民族資料館は、月曜の為休館だった。
蕨宿内は古い商家も多く残る。
宿場中ほどにある鈴木薬局。 屋根上と、1階正面の「薬」と彫られた看板が目を引く。
三学院の「目疾地蔵」と「六地蔵」
目疾地蔵の目に味噌を塗ると、眼病に良いと言い伝えがあるそうだ。
蕨宿は都心に近い割に、歴史街道の雰囲気を良く残している。
焼米坂を登る。 昔はこの辺りで焼米を売っていたそうだ。
焼米とはどの様なものか? 焼きおにぎりを想像するのは私だけか・・・
浦和に着く手前に、立派な屋根を持つ古い商店があった。
調(つき)神社 昔の税制であった「租・庸・調」の調の集積場所だった。
神社なのに鳥居は無く、狛犬の代わりに狛兎が鎮座している。
お帳場の雰囲気を持つ、古いお茶屋さん。
浦和駅西口 浦和宿の入り口だが、全くその面影はない。
私が生まれ育った場所である、「縁切り榎」の迂回路を歩きながら、小学校時代の友人の家を何軒か探してみた。 判ったのは僅か1軒だけで、他の友達などは引っ越してしまったのだろうか? 中学の途中で転校して以来、小学校の友人達とも縁が切れ、クラス会などの通知も来ない。 転校するまで通った板橋区立第4中学校は廃校となり、地域センターの様なものになっていた。
この日は子供の頃の懐かしい思い出を辿りながら、街道歩きとは別の楽しさを味わうことができた。 浦和駅より帰途につく。