大宮から上尾、桶川へと歩を進める。 首都圏を走る京浜東北線は大宮が終点であり、この先は東北本線と高崎線に分かれる。
中山道は高崎線沿いに進むが、あまり馴染みのない駅名が出始める。 だいぶ郊外に出てきた感がするが、まだ旧街道の雰囲気は出てこない。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 実距離 | 手段 | 万歩計 | ルート | 備 考 | |
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2014/10/07 | 大宮宿~上尾宿 | 2里 | 7.9Km | 8.4KM | ![]() |
20,501歩 | Map | 大宮から上尾までの街道も、これまで同様に昔の面影は殆んど無い。 |
上尾宿~桶川宿 | 34町 | 3.7Km | 3.6KM | ![]() |
桶川が近づくと、やっと郊外らしくなってきた。 | |||
合 計 | 2里34町 | 11.6Km | 12.0Km | -- | 20,501歩 | |||
日本橋からの累計 | 10里14町 | 40.8Km | 46.9Km | -- | 86,130歩 |
前回はこの髙島屋の交差点を左折して氷川神社に向かった。
しかし今回はまっすぐ上尾を目指す。
氷川神社裏参道入口に立つ「官幣大社 氷川神社」の大きな石柱。
氷川神社の表参道からここまでが、旧中山道の古道である。
大山御嶽山道標 「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越みち」と彫られている。
さいたま市教育委員会の説明板には、"引又"とは志木のことと書かれていた。
東大成の庚申塔 江戸時代前期の元禄10年(1697)に建てられた。
目や耳の病気の時には、お団子を供えるそうだ。
東北・上越新幹線と、ニューシャトルのガードをくぐる。
村社 賀茂神社 旧加茂宮村の鎮守だそうだ。 いわゆる村の鎮守様である。
上尾市に入る。
不動尊道標 「馬喰新田」という名のバス停前に立つ。
この近辺は、牛馬に関係する博労が多かったのか?
少し風情ある建物が現れる。
脇本陣の井上家の鬼瓦が、塀の一部となっている。
「おしゃれ工房新井屋」の看板下に立つ鐘馗様。
和菓子屋「伊勢屋」店頭(左)と、「彩の国平成の道標」(右)屋根に立つ鐘馗様。
【 鐘馗様の役割 】
火事などの災い避けとして、屋根に鬼瓦を乗せる場合がある。 しかし鬼瓦に睨まれると、疫病が来るとか魔がさすと言われているらしく、向かいの家では鬼より強い鐘馗様を屋根に立てて対抗したとのこと。 そう言われてみると、「おしゃれ工房新井屋」の向かいには、脇本陣井上家の鬼瓦がある。
一方 北国街道・丹波島宿では、「宿場に入ってくる邪気を払うため、街道入口や脇道からの突き当りの家の屋根に鐘馗さまの飾り瓦が置かれている。」と説明されていた。 いづれも災い避けに変わりはないようだ。
遍照院という、奈良の唐招提寺の様な形のお寺がある。 ここに「孝女お玉の墓」がある。 「玉の輿」にふさわしくも悲しいエピソードを知り、立ち寄ってみることとした。
遍照院(左)と遊女お玉の墓(右)。
【 孝女お玉の悲しい話 】
お玉は貧しい生家を助ける為、11歳で飯盛旅籠「大村楼」で働き始め、美しく気立て良い評判の遊女となった。 19歳の時、参勤交代でやって来た加賀前田藩の小姓に見初められ、共に江戸に下った。
ここまでの話は、まさに「玉の輿に乗った遊女」である。 しかし2年後に病に罹り上尾に戻され、僅か25歳で生涯を終えたという悲しい話である。 そして飯盛旅籠「大村楼」の主人が、薄倖なお玉の墓が建てたというが、墓石はさほど古くは無いような気がしたが・・・
桶川の街に入ってっも、街道沿いには家が続く。 しかし浦和や大宮と異なり、ビルに代わって戸建て住宅が沿道に並ぶ。 遅々として進まない中山道の旅であるが、やっと首都圏を抜け、郊外までやって来たようである。
雨戸の戸袋を銅板で装飾している。 看板建築の一種であろうか。
桶川宿江戸側の木戸跡を示す石碑が立つ。
2階の屋根上に立つ鐘馗様。
武村旅館 旅籠時代の間取りをほぼ引き継いで、現在も営業している。
レトロ感漂う商店。
浄念寺の板石塔婆 説明板によると、最も古いのは正和4年(1315年)だそうだ。
この様な石の塔婆は、板橋宿と蕨宿の間の志村でも見られた。
桶川宿は、駅前より先にも見所は多いようである。 しかしこの先は次回のお楽しみとして、桶川の駅に向かって帰路につく。 だいぶ郊外に出てきたので、次回からは自転車を担いで来ることを考えよう。